熱狂とカオス!魅惑の南米直送便BACK NUMBER
97歳日本人が“70年前、初の海外組サッカー選手”だった? コロンビアにあった「ナゾの金満・海賊リーグ」とは
text by
ファビアン・ロソ・カスティブランコ/沢田啓明Fabian Rozo Castiblanco/Hiroaki Sawada
photograph byFabian Rozo Castiblanco
posted2022/03/07 17:00
半世紀以上前に“海賊リーグ”と称されたコロンビアリーグに所属した道工薫
日本人であることをアピールするため白い鉢巻を
――サンタフェ入団のいきさつは?
「1948年、海軍の練習艦に乗ってアマゾンまで航海した際、船体の一部が破損した。その修理を待つ間、ボゴタの駐屯地に滞在していた。その折、知人からサンタフェがチーム強化のため選手を探していると聞き、入団テストを受けた。
紅白戦でCKを蹴ったら、直接ゴールに入った。後にも先にもそんなことはなかったが、このプレーが評価されたらしく、合格した」
――海軍に籍を置いたままプレーしたそうですが、なぜそのようなことが可能だったのでしょうか?
「上官に『軍務とかけもちで、プロクラブでプレーしたい』と願い出たが、最初は許可が下りなかった。しかし、フットボールが大好きな別の上官がおり、その人のとりなしで特例として認めてもらえた」
――どんなタイプの選手だったのでしょうか?
「豊富なスタミナと激しい闘志が持ち味のボランチだった。ピンチになると、ゴールをカバーしてチームのピンチを救うのが得意技。私が失点を防ぐと、サポーターが大喜びしたものだ。背番号は6。子供の頃からの習慣だったし、日本人であることをアピールするため白い鉢巻をしていて、そがトレードマークだった」
当時の写真を見るとまるで日本映画に出てくる俳優
やや地味なポジションでありながら、なかなかの人気者だったようだ。
――サンタフェのクラブカラーは、赤と白。エンブレムが白地に赤い丸で、日の丸と似ていますね。
「そう、そうなんだ。私は日本人の血を引いていることが誇りだから、サンタフェのクラブカラーとエンブレムがとても気に入っていた」
当時の写真を見ると、なかなかの美男子。昔の日本映画に出てくる俳優のようだ。
1948年の初年度のリーグ戦には、10チームが参加した。ほとんどのチームが、アルゼンチン、ウルグアイ、ブラジル、ペルー、パラグアイなど南米各国からの外国人選手を補強していた。
「サンタフェは、監督がペルー人で、アルゼンチン人選手が4人いた。飛び抜けた選手こそいなかったが、激しい当たりと粘り強い守備が持ち味。攻撃面では、カウンターが主な武器だった」
薫が再三のピンチを“第二GK”よろしく救ったこともあり、18試合でリーグ最少の29失点。12勝3分3敗で、2位ジュニオールに勝ち点4差をつけて初代王者となった。
「コロンビアの最初のプロリーグで優勝したことは、私の生涯で最高の栄誉だ」
それから74年の歳月が過ぎた。このときの優勝メンバーで、生存しているのは薫しかいない。
<第2回に続く>
記事内で紹介できなかった写真が多数ございます。こちらよりぜひご覧ください。