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「小鹿、早く帰ってこい。会社を改革しよう」“プロレス界の生き字引”グレート小鹿がアントニオ猪木と飲み明かしたLAの夜 

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原悦生

原悦生Essei Hara

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posted2022/02/13 11:01

「小鹿、早く帰ってこい。会社を改革しよう」“プロレス界の生き字引”グレート小鹿がアントニオ猪木と飲み明かしたLAの夜<Number Web> photograph by Essei Hara

ヒールとして人気を博したグレート小鹿と大熊元司の「極道コンビ」。アメリカでは「ライジング・サンズ」の名称で活動した

「それを意地悪で開かないようにボンドでくっつけちゃうヤツがいるんですが、オレはやられたことがない。控室でみんなに背中を向けて、トランク開けて。模造拳銃やナイフをタオルの上に並べて、後ろの髪の毛をパラパラって切るんです。みんなそれを見ているんですよ。見えるようにやっているんですけど、アイツ、やばいぞってなる(笑)」

アントニオ猪木とLAで語り合ったプロレス改革案

 小鹿は当時の日本プロレスにも触れた。

「1970年、5月だったかな。猪木さんとロサンゼルスのリトルトーキョーで夜8時から翌朝5時までずっと飲んでいた。トイレに行くのが面倒くさいから、オレの車を背にして2人で立ちションして。『小鹿、お前早く帰ってこいよ』って。そのくらい猪木さんと気が合ったんですよ。『日本プロレスは大の男がこれだけいて、ビルのひとつも持っていない。だれかがポッポ(懐)に入れちゃっているか、使っているんだろう。会社を改革しよう』って。オレも賛成しているんですよ。金井克子、岸ユキ、由美かおるがいた西野バレエ団は、女の子たちだけで青山通りにビルを持っていた。そんなふうに日プロの改革の話で盛り上がった。あの話がその通りに進んでいたら、日本のプロレスは違ったものになっていただろうね」

 小鹿は1971年10月に帰国する。その年の12月、猪木は日本プロレスの乗っ取りを企てたとして、同団体を除名、追放されてしまう。

「裏で絵を描いている人間がいるんですよ。猪木さんも少しは悪いのかもしれないけど、周りにだまされていたんだろうね。猪木さんは真面目で麻雀もやらない。吉村道明、ジャイアント馬場、芳の里、九州男児(坂口征二)は巡業先で麻雀をやっていたなあ。猪木さんはそばにいた参謀というか、人間が悪すぎたんだろうね。それも猪木さんの人柄なのかな。ロサンゼルスで話したことをそのまま行動に移して改革が順調に進んだら、日本のプロレスは変わっただろうね。世の中ってこんなものかなと思う部分もあるけれど、残念だった。あれは心残りだよね」

 力道山がアメリカからプロレスを持ってきて、もう70年になる。

「これをどうやって後世に残せるか。力道山の弟子で、プロレスに関係しているのはもう僕と猪木さんくらいしかいないでしょう。僕はね、馬場さんのことを伝えていくために何かをやろうか、と思っている。やはり、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで『日本男児ここにあり』っていう開拓をしたのはジャイアント馬場なんだから。今、馬場さんの故郷である新潟に行って考えているんだけどね。時代によってプロレスのお客さんの好みは変わるけれど、風に流されないプロレスの4文字を守っていきたい。猪木さんも、馬場さんも分家したんだから。最後まで日本プロレスに残ったのはオレなんだからね」

<#3「今もリングに立ち続ける理由」へ続く>

#3に続く
“4月で80歳”グレート小鹿はなぜ社会貢献に情熱を注ぎ、今もリングに立ち続けるのか「結局、オレもプロレスバカなんだね」

記事内で紹介できなかった写真が多数ございます。こちらよりぜひご覧ください。

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