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「小鹿、早く帰ってこい。会社を改革しよう」“プロレス界の生き字引”グレート小鹿がアントニオ猪木と飲み明かしたLAの夜
text by
原悦生Essei Hara
photograph byEssei Hara
posted2022/02/13 11:01
ヒールとして人気を博したグレート小鹿と大熊元司の「極道コンビ」。アメリカでは「ライジング・サンズ」の名称で活動した
1人になった小鹿はフロリダに行った。
「フロリダでいきなりジャック・ブリスコですよ。30分1本で引き分け。チャンスはあって、勝てればよかったんだけどね。デトロイトのザ・シークのところにも行った。オハイオは縦に長いんですよ。デトロイトとシンシナティの間のあるトレド・オハイオにアパートを借りて、南北に行き来していた」
その後、坂口征二がアメリカにやってきて一緒にサーキットした。筆者は当時、2人の田吾作スタイル姿もプロレス雑誌で見たことがある。
セントルイスでは2カ月に1回のビッグショーがあった。
「そこに毎回呼んでくれた。各州のトップレスラーが行くんだけどね。パット・オコーナーとハーリー・レイス、ボブ・ガイゲルの3人がオフィスにいた」
セントルイスは全米マットで勢力を拡大していたNWAのおひざ元で、サム・マソニックが仕切っていたキール・オーディトリアムがあった。
「ガイゲルから1週間最低500ドルは絶対払うからまた来てくれ、って言われた。でも約束を守ってくれない。こっちはホテルに泊まって経費を使っているんだから、ちゃんと払ってくれって。そうしたら、家には娘が3人いるからわかってくれ、とか言って。向こうが悪いと思ったら、こっちは何も(仕事)しない。試合をしないでトレド・オハイオまで帰ったよ。約束は守らないとダメだよ」
模造拳銃やナイフを並べて「アイツ、やばいぞ」
アメリカでは小鹿にとってロサンゼルスが一番よかったようだ。ロサンゼルスは、力道山時代の日本プロレスで有名な「ショック死事件」を起こした“吸血鬼”ことフレッド・ブラッシーの主戦場だった。ブラッシーの妻は、日本人の三耶子(ミヤコ)さんだ。
「ミヤコがかわいそうだから、もうヒールはやりたくないって」
そんなブラッシーの心変わりは、小鹿にとってある意味ラッキーだった。ロサンゼルス地区の会場はヒスパニック系のファンが6割から7割いた。メキシコから来ていたミル・マスカラスがそんなファンの人気と支持を得て、大会場のグランド・オリンピック・オーディトリアムは満員だった。小鹿は1969年10月にマスカラスを締め落としての反則負け、同年12月には金網デスマッチでマスカラスからUS王座を奪った。小鹿は観客の憎悪を買っていた。
「1週間に5回もやれば、何か面白いことを考えますよ」
小鹿は当時を思い出すように笑った。
「何も知らないで行ったアメリカ。英語はブロークン、読み書きはできない。でもひとつひとつ、『これは何?』って聞いてね。助け合いってありますね、どこの国でも。オレ、余計なことは言わないから、トラブルにはならない。自己防衛はしますけど。意地が悪いとか、いけ好かないヤツはどこにでもいるけど、何か悪いことをされたことはない」
当時のレスラーはみな、流行っていたサムソナイトのジュラルミンケースに貴重品を入れて持ち歩いていたという。