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小平奈緒19歳が「下手だね。修正しないと世界はないよ」と言われた日… 清水宏保と共通する“究極の滑りへの探求心”とは
text by
矢内由美子Yumiko Yanai
photograph byRyosuke Menju/JMPA / Kazuaki Nishiyama/JMPA
posted2022/02/17 11:01
(左)2018 PyeongChang 五輪レコードを塗り替える 36秒94と、低地リンクの常識を打ち破る記録を叩き出した。(右)1998 Nagano 長野五輪ではスケート競技で日本史上初の金メダルを獲得する快挙を成し遂げた
「22カ月計画」を立てて、平昌五輪を目指した
「未来はこうなるだろうという仮説があって、その仮説に理由付けをできる人が結城先生。先見の明を持っている人だと感じたから、信じることができたのです」
大学2年でW杯に初参戦した小平は、卒業後も結城の指導を受けながら社会人1年目にバンクーバー五輪に出場する。その後は体格で勝る海外の選手との差を埋めるべく様々な方法に挑戦。ソチ五輪のときは「男飯です」(小平)と言いながら、男子並みの食事で筋量を増やす方法も試みた。
500m5位とメダルに届かなかったソチ五輪の後は、スケート王国オランダに拠点を移して武者修行をした。オランダではストレートの滑走技術の秘訣を探究し、勝者のメンタリティーを伝授される毎日。日本の何倍もの時間をかけて行なう自転車トレーニングは内省の時間となり、自転車専用道路は「哲学の道」となった。小平は徐々に、求道者のような思考を持つようになっていった。
オランダでの修行は、当初は数カ月の予定だったが、滞在は半年、1年、2年と延びていった。知れば知るほど、その奥に潜むものをもっと知りたいという欲求に駆られた。オランダで十分な知識を蓄えたと判断した'16年4月に帰国。結城と「22カ月計画」を立てて、'18年2月の平昌五輪を目指した。結城は「小平は、大学入学後の9年間と、オランダの2年間で得たものを組み合わせて練習できる環境を求めて日本に帰国しました。その時点で平昌五輪の勝算があったのだと思います」と指摘する。
コーチからの「怒った猫のように」という指摘
オランダでは、フィジカルや技術を磨き上げるための方法を手にしただけではなく、固定観念を打ち壊す経験もあった。あらゆる場面で選択の必要性に迫られたことだ。「それまでの私には、両親の教えがあり、結城先生の指導がありました。だから、オランダでは自分で選択できるということがすごく新鮮でした」と小平は語る。
オランダでの2シーズンを経て日本に戻り、結城の下での夏のトレーニングをこなして迎えた'16-'17シーズン。小平は以前とは違うフォームを身につけていた。そして、それを見た清水は、小平の変貌ぶりに目を奪われた。
「彼女がフェイスブックに上げている動画を見た瞬間、動きが変わりすぎていて、小平さんが上げているのに小平さんだと思わなかったのです」
まず、氷のとらえ方が変わっていた。五輪金メダル3個を持つマリアンヌ・ティメルコーチから「怒った猫のように」という指摘を受け、日本に帰国した後にフォームを修正した結果、背骨の使い方がしなやかになり、骨盤の位置も水平になっていた。それまでパワーに頼っていた小平が、筋肉を使う、いや、それだけでなく骨までも使いこなしていく技術を身に付けたのだ。