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小平奈緒19歳が「下手だね。修正しないと世界はないよ」と言われた日… 清水宏保と共通する“究極の滑りへの探求心”とは 

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矢内由美子

矢内由美子Yumiko Yanai

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photograph byRyosuke Menju/JMPA / Kazuaki Nishiyama/JMPA

posted2022/02/17 11:01

小平奈緒19歳が「下手だね。修正しないと世界はないよ」と言われた日… 清水宏保と共通する“究極の滑りへの探求心”とは<Number Web> photograph by Ryosuke Menju/JMPA / Kazuaki Nishiyama/JMPA

(左)2018 PyeongChang 五輪レコードを塗り替える 36秒94と、低地リンクの常識を打ち破る記録を叩き出した。(右)1998 Nagano 長野五輪ではスケート競技で日本史上初の金メダルを獲得する快挙を成し遂げた

スラップスケート導入の背景とは

 ところが、長野五輪に向けて突き進んでいたちょうどその頃、日本勢は忍び寄る不安にさいなまれるようになった。外国勢が、ブレード(刃)と靴のかかと部分が離れる構造になったスラップスケートをこぞって履きだしたのである。開発段階だった'92年にスラップスケートを履いたことのあった結城は、清水の母校である日大の今村俊明監督とともに清水のスラップ用シューズの製作を極秘裏に進めた。

 これが、功を奏した。長野五輪前年シーズンまで従来通りのノーマルスケートを履いていた清水だが、五輪シーズンのW杯開幕戦である'97年11月のローズビルに向けての練習会場で外国勢のほとんどがスラップスケートを履いている光景を目の当たりにし、迷っている場合ではないと気づいたのだ。清水はW杯開幕戦からスラップにすることを急きょ決断。内緒で用意されていたスラップスケートをすぐに試合で使い始めるとみるみるうちにスラップで滑る技術をマスターし、五輪本番では1本目、2本目とも1位のタイムで金メダルに輝いた。清水は長野五輪を終えると会社を辞めてプロ選手になりコーチとして結城と契約を交わした。

「『ウイン-ウインな関係を築けたらいいですね』ということで、コーチング+技術者としての立ち位置でサポートしてもらう契約を結びました」

「僕が欲しかったのはタイトルと世界記録の両方」

 清水は'96年3月のW杯カルガリー大会で初めて35秒39の世界記録を樹立している。そして、長野五輪では世界記録保持者の肩書きを持って金メダルを獲得していた。タイトルとタイム。清水が一番に追い求めたものはどちらなのか。

「僕が欲しかったのはタイトルと世界記録の両方です。4年に一度の五輪の金メダルは偶然性に左右されることもありえます。だからこそ、五輪ではただ金メダルを獲るのではなく、誰もが筆頭候補とみる中で勝つことにより、真のチャンピオンになりたかったのです」

 そのような志向で滑っていた清水が、「究極の滑り」をターゲットとするようになったのは長野五輪の後だった。

「長野で金メダルを取って、次のモチベーションを考えたときに思い浮かんだのが、滑りの技の探究。そこに世界記録があると捉えるようになりました」

 清水は長野五輪の1カ月後に行なわれた'98年3月の世界種目別選手権で、史上初めて35秒の壁を破る34秒82の世界新を記録した。'01年3月のソルトレークシティでの世界距離別選手権でも34秒32の世界記録をマークしている。

【次ページ】 21歳の小平に抱いた率直な第一印象とは

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