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富沢祥也と勝利のわかめラーメン…極限に挑むライダーたちの願掛けと、多くの才能を見送ったGPライター遠藤智の追想
text by
遠藤智Satoshi Endo
photograph bySatoshi Endo
posted2022/02/04 06:00
1990年12月10日生まれの富沢祥也。フル参戦2年目、世界の舞台で才能が花開き始めたばかりでの惜しまれる死だった
祥也がレース中の事故で亡くなったシーズンオフに、祥也の家族とフランス・アレスのアパートに荷物の整理に出かけた。その道中、父・輝之さんと祥也のことばかり話した。僕はグランプリに参戦していた祥也が、どういう生活、どういうレースをしていたのかということを父・輝之さんに伝え、輝之さんからは僕の知らない祥也の子供のころの話を聞けた。
父・輝之さんの言葉が胸につきささった
この子にしてこの親ではないが、いつも明るく振る舞う輝之さんが、このときに僕に言った言葉が忘れられない。「レースという危険な仕事をしているからには事故は覚悟していた。でもね……」と言葉を詰まらせ、祥也の二人の弟で、当時、まだ小学生と高校生だった「恭也と亮哉がいなかったら本当に死にたかった」という言葉が胸につきささった。
グランプリを転戦するという仕事を始めてから、93年にスペイン・ヘレスで若井伸之が亡くなった。そして、大ちゃんにノリックと、息子を亡くした家族を見て思うことは、事故から時が経つと、僕たちにとっては過去のことになってしまうが、家族にとっては、どんなに時間が経っても昨日のことなんだということだった。
カタールGPがシーズン開幕戦の舞台になって何年が過ぎるのだろうか。グランプリはいつもカタールGPから始まるというのもグランプリ界の「決まり事」になっている。そのカタールGPに向かう前に僕がいつもやっておかなくてはいけないこともあり、それは祥也の家に行って「行ってくるぞ」と出発のあいさつをすることだった。あのとき、19歳だった祥也が生きていたら31歳である。暇があればプレスルームに来て、僕の横に座って、あれやこれやを報告していく。いまでもそんな日々を思い出す。
今シーズンがまもなく始まるが、祥也と出会ってから増えた決まり事。それは海外に遠征するときに「わかめラーメン」を持って行くことだが、それはいまも続いている。
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