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富沢祥也と勝利のわかめラーメン…極限に挑むライダーたちの願掛けと、多くの才能を見送ったGPライター遠藤智の追想 

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遠藤智

遠藤智Satoshi Endo

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photograph bySatoshi Endo

posted2022/02/04 06:00

富沢祥也と勝利のわかめラーメン…極限に挑むライダーたちの願掛けと、多くの才能を見送ったGPライター遠藤智の追想<Number Web> photograph by Satoshi Endo

1990年12月10日生まれの富沢祥也。フル参戦2年目、世界の舞台で才能が花開き始めたばかりでの惜しまれる死だった

「これから決勝日はわかめラーメンだな」と僕がいい、半分はジョークで始まった「決まり事」だったが、いつのまにかそれが続いた。日本とヨーロッパを頻繁に往復していた僕が祥也の優勝を願い、その都度わかめラーメンを調達。フランスを拠点に活動していた祥也にあげた。しかし、その年のシーズン後半戦のサンマリノGPで、優勝争いをしていた祥也は右高速コーナーで転倒。コース上に身体が残り、避けきれなかった後続車に轢かれ亡くなった。そのとき祥也はまだ19歳だった。

 03年の日本GPで大ちゃんこと加藤大治郎が亡くなり、07年には交通事故でノリックこと阿部典史が帰らぬ人になった。日本が生んだ二人の天才ライダーは、僕の大好きなライダーだったし、一緒にいる時間も多かった。大ちゃんがいなくなりノリックもいなくなった喪失感は想像を絶するほど大きかった。そんなときに出現したのが、将来の世界チャンピオンを予感させる走りをする祥也だった。自分の息子と同じくらいの年齢だったが、初めて会ったときから祥也とは不思議にうまが合った。

原田哲也と大ちゃんから教わったテクニックを伝えると……

 これは祥也が亡くなった後、僕が出版した祥也の写真集『SHOYA』でも書いたことだが、彼は誰に対しても笑顔であいさつをする。それがライバルであれ、チームオーナーであれ、メカニックであれ、ケイタリングで働くスタッフであれ、彼は自分から心を開いていく。言葉が通じるかどうかなんてそんなことは関係ない。彼はグランプリで働く人たちが大好きだった。グランプリのパドックで働く人たちも、そんな彼のことが大好きだった。

 そんな祥也に僕は、世界チャンピオンになった哲ちゃんこと原田哲也と大ちゃんから教わったいろんなテクニック、メンタルのコントロールの仕方などを伝えた。とにかく、「こうしてみたら」「これをやってみたら」と言うと、それをすぐに実行に移し、いとも簡単に実現させる類い希な才能の持ち主だった。

 とにかく、スタートがうまく、1周目が速い。マシンの限界を掴むのもうまかった。もっといけると思うのだろうか良く転んだが、それはフリー走行、予選までのことで、決勝ではしっかりと最後まで走り切ることが多かった。これからどこまで伸びていくのだろう。これから経験を積んでいけば、どんどん速く、強くなるに違いない。大きな舞台に立てば立つほど、その舞台に見合う走りが出来るライダーだった。

 祥也が亡くなった10年に125ccチャンピオンになり、その後、あっという間にMotoGPクラスでチャンピオンになってしまうマルケスのような輝きがあった。マルケスと同じように転倒は多いが、その転倒の影響を引きずらないところも同じだった。転んでもすぐにいつもの走りができるところは、まさに天賦の才の持ち主だった。

【次ページ】 父・輝之さんの言葉が胸につきささった

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