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「メガネの捕手は大成できない」まさかの指名漏れで22歳古田敦也が頭を下げた日…20年後、最後の「代打、オレ!」でヤクルト古田が引退するまで 

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中溝康隆

中溝康隆Yasutaka Nakamizo

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photograph bySankei Shimbun

posted2022/01/22 17:03

「メガネの捕手は大成できない」まさかの指名漏れで22歳古田敦也が頭を下げた日…20年後、最後の「代打、オレ!」でヤクルト古田が引退するまで<Number Web> photograph by Sankei Shimbun

2007年10月7日、引退試合。本拠地最終戦で詰めかけた大観衆に別れを告げる古田敦也兼任監督

 自著『古田のブログ』(アスキー)では、監督就任時、神宮球場にお客さんを呼ぶために「マーケティングとかイベントの専門家など、外部の人材を入れましょう」と球団側に提案したことが書き記されているが、アットホームなファミリー球団のヤクルトにおいて、兼任監督の要望は実現しないことも多かったという。

最後の「代打、オレ!」

 9月19日、2日前にクライマックスシリーズ出場の可能性が完全に断たれたことを受け、会見に臨んだ古田は「寂しいより悔しい」と涙を流しながら選手引退と監督退任を発表する。07年10月7日、神宮球場の広島戦での引退試合、涙の会見の翌日に発売されたチケットは即日完売した。3万3027人の大観衆が詰めかけ、球場全体で緑色の「27」ボードが掲げられ、スタンドには盟友・池山隆寛や、当時メジャーリーガーの岩村明憲の姿もあった。

 42歳の背番号27は「5番捕手」で先発出場すると、ともに黄金時代を築いた石井一久らとバッテリーを組み、3打数無安打で迎えた8回裏の最終打席は、前日に広島市民球場で引退セレモニーを終えたばかりの同期入団・佐々岡真司がマウンドへ(なお、佐々岡は前日の登板で、本塁打王が懸かっていた横浜の村田修一から一発を浴びた)。両軍ファンから「フルタ」コールが送られる中で遊ゴロに倒れ、9回表に登板した高津臣吾とはマウンド上で笑顔を浮かべハグを交わす。テレビの前で見ていても、不思議と悲壮感はなかった。「明るく、楽しく、激しいプロ野球」を体現した古田らしい、なにより強かった頃のヤクルトの残り香が感じられる引退試合である。試合後のセレモニーでは、「18年間、本当にありがとうございました。また会いましょう!」と爽やかにグラウンドを去った。

 金子達仁の『古田の様』(扶桑社)によると、兼任監督になって1年目のオフ、右肩の腱の約90パーセントが切れているため手術を予定していたが、監督として秋季キャンプに参加することを優先させ、手術はキャンセルしたという。結果、現役最終年はわずか10試合の出場。やはり兼任監督の重責は選手寿命に影響を及ぼした。Tシャツまで作られた話題の「代打、オレ!」は2シーズン計19回と少なかったが、19打数7安打の打率.368と結果を残している。なお、引退試合から2日後の10月9日、シーズン最終戦の横浜スタジアムで最後の「代打、オレ」がコールされ、背番号27は通算2097安打目となるレフト前ヒットを放った。

<前編から続く>

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