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「メガネの捕手は大成できない」まさかの指名漏れで22歳古田敦也が頭を下げた日…20年後、最後の「代打、オレ!」でヤクルト古田が引退するまで

posted2022/01/22 17:03

 
「メガネの捕手は大成できない」まさかの指名漏れで22歳古田敦也が頭を下げた日…20年後、最後の「代打、オレ!」でヤクルト古田が引退するまで<Number Web> photograph by Sankei Shimbun

2007年10月7日、引退試合。本拠地最終戦で詰めかけた大観衆に別れを告げる古田敦也兼任監督

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中溝康隆

中溝康隆Yasutaka Nakamizo

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Sankei Shimbun

長嶋、王、落合から桑田、清原まで……球界を彩った24人のスターたちは「最後の1年」をどう過ごしたのか? 去り際の熱いドラマを描いた『現役引退――プロ野球名選手「最後の1年」』(新潮新書)が重版され、売れ行き好調だ。そのなかから、1990年ヤクルト入団、のちに平成初のプレイングマネージャーになった名捕手・古田敦也の現役引退までを紹介する(全2回の2回目/前編へ)。

22歳の古田敦也が頭を下げた日

 古田は大学時のドラフト(1987年)で、日本ハムから上位指名を確約されながら、当日まさかの指名漏れを経験している。しかも、「メガネをかけている捕手は大成できない」なんて理不尽な理由で、集まったマスコミに対して「申し訳ありませんでした」と頭を下げた22歳の青年の屈辱。あの時の球界の大人たちに対する不信感が、闘う選手会長の原点にはあったのかもしれない。

 とは言っても、その弱点であったはずのメガネも、Jリーガーの中山雅史が表紙を飾る「小学五年生」94年4月号の「プロ野球選手 オレの武器」というコーナーに「古田敦也のメガネ」でしっかり登場するのだから恐ろしい。

 記事によると、スイスで開発されたコンピューターで自分の顔87カ所を測ってもらい、顔にピッタリ合った形のメガネを選択。レンズはフレームのないリムレスタイプ。耳にひっかけるイヤーピース部分は二重構造でクッションの役目を果たし、プレー中に衝撃を受けても外れることがない。メガネのツルやブリッジを支える部分は「ウルテム」という新素材でジャンボジェットの機体にも使われているスグレもの。レンズのポリカーボネートは耐衝撃度が普通のプラスチックの10倍もあり、カナヅチでたたいてもビクともしません……ってマニアックな情報すぎて、小学5年生の読者は誰もついて来られないよ!

平成初のプレイングマネージャー“1億8000万円減も”

 なんて絶叫したくなる規格外のハイテクメガネを手に入れた古田は、ベストナイン9回、ゴールデングラブ賞10回と圧倒的な結果を残し、チームを五度のリーグ優勝、四度の日本一へと導いた。先頭に立って球団合併と1リーグ制を阻止し、交流戦が始まった05年には40歳で捕手としては野村克也以来となる史上2人目の通算2000安打も達成。この年に開設したブログも話題になったと思ったら、オフには球団からの要請を受け、29年ぶり、平成初の選手兼任監督の誕生である。

 就任1年目の06年は3位も、プレーヤーとしての古田自身は下半身や右肩の故障もあって出場機会が激減し、36試合出場(先発マスク20試合)で打率.244、プロ入り以来初めて本塁打なしに終わる。オフの契約更改では選手分年俸1億8000万円減の6000万円サインが話題に(監督分年俸は別途1億円)。そして、07年の「最後の1年」を迎えるわけだが、正直その個人成績はほとんど覚えていない野球ファンも多いだろう。なぜなら、ラストシーズンはわずか10試合(19打席)しか出場しておらず、チームは球団21年ぶりの最下位に転落したからだ。皮肉なことにヤクルトにおいて、スーパーキャッチャー古田の穴はあまりに大きかった。

【次ページ】 最後の「代打、オレ!」

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