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ぶら野球BACK NUMBER
ゲーム会社社員「(野村監督では)暗すぎて売れません」ノムさんと真逆キャラ…90年代ヤクルト古田敦也は“捕手のイメージ”を変えた
text by
中溝康隆Yasutaka Nakamizo
photograph bySankei Shimbun
posted2022/01/22 11:00
1989年ドラフト2位でトヨタ自動車からヤクルト入りした古田敦也。写真は93年春のユマキャンプ、野村克也監督から指導を受ける
「打者は顔色や態度に出しませんから、読む材料が少ないんですよ。この打者はどういう傾向があるのか、前の打席どうだったのかのデータをもとに、その場の状況から判断するんです。将棋のようにあんまり先を読むようなものではないですね」
さすが心身のタフさとロジカルさを併せ持つ男。捕手の概念や常識を変えたように、球界のシステムでも古田が一石を投じたものは数多い。若手時代の90年代前半から、オフになると野球以外で話題を振りまいていた。当時の日本球界ではまだ珍しい代理人同席での契約更改を球団に求め、テレビゲームに登場する選手の肖像権使用料についても話し合いを要求。同時期にJR東日本のイメージキャラクターにも選ばれ、「週刊ベースボール」92年12月28日号には「知的で信頼感があって、しかも親近感もある」と広告業界関係者のコメントが掲載されたが、ヤクルト選手が本社以外のテレビCMに登場するのは初だった。リアリスト古田は、旧態依然とした球界の慣習破りに挑戦したのである。
「ナイスピッチング!」ベテラン投手の尻をバーン
年功序列をグラウンド上に持ち込むなんてナンセンス。立命館大4年時、五輪予選の日本代表チームに、大学生では古田と長嶋一茂の二人だけが招集された。有名人のカズシゲはまだしも、関西の大学に通うメガネの捕手を知るものはほとんどいない。だが、いざ練習が始まると、バッテリーを組んだ30代のベテラン投手の尻を「ナイスピッチング!」なんてバーンと叩く度胸の良さで周囲を驚かせる。
のちに後輩たちに食事もあまり奢らないケチらしいとネタになったが、もう思考そのものが良くも悪くも昭和の体育会系のノリではなかったのだろう。しかも、98年に33歳で日本プロ野球選手会会長に就任した古田は、当初から機構側やオーナー側に対して一歩も引かない激しいバトルを繰り広げていた。2000年の公式戦増加を巡る交渉時には、年俸増額やオールスター1試合制等を提示し、最終的にストライキも辞さないと発言。いち早くセ・パ交流戦の実現についても言及している。さらに代理人制度、ドラフトやFA改革と時代に合った変化を目指し、遠慮なく新しい意見を提案し続けた。もちろん選手側が絶対的に正義で、経営側が悪なんて単純な図式ばかりではないが、このスタンスはやがて04年球界再編時の“闘う選手会長”へと繋がっていく。
<後編に続く>
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