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「お前は戦力に入っていない」実家で父親から告げられた戦力外通告 “2世”長嶋一茂のプロ野球人生はこうして終わった
posted2021/05/17 17:01
text by
中溝康隆Yasutaka Nakamizo
photograph by
KYODO
帰ってきたミスター、27歳のジュニア、加えてドラフトで引き当てたゴジラ松井という大物ルーキーもいた。93年宮崎キャンプはほとんどパニックのような熱狂を生み出すことになる。日曜午後のオープン戦地上波中継が視聴率20パーセント超えの異常事態。「週刊現代」93年2月6日号では、「松井秀喜vs.長嶋一茂 最後に笑うのはオレだ」という特集が組まれたほどだ。
オープン戦で2打席連発弾など猛アピールを続けた真新しい背番号36は、ついに「6番レフト」で開幕スタメンを勝ち取る。その後は打撃の調子を落とし、二軍のデーゲームに出場してから一軍のナイターに駆け付けたこともあったが、4月23日には甲子園の阪神戦で左翼席へ移籍後初本塁打。これがセ・リーグ3万号のメモリアルアーチでもあった。「7番サード」で5打数3安打2打点の猛打賞アピール。ベンチではジャイアンツの長嶋監督、いやオヤジが見ている。余計なものなど何もない。ある意味、ガキの頃からの夢がかなった夜だ。興奮のあまり寝付けなかった翌朝、宿舎近くの売店で新聞をすべて買い込んだ。そして、この時がプロ野球選手・長嶋一茂の絶頂だった。
30歳で迎えた「最後の1年」
今年ダメなら終わり。住んでいるマンションの天井が低くて思うように素振りができないため、引っ越しまでした。しかし、リトルリーグ時代に痛めた右肘は限界を迎え、右膝の状態も日常生活に支障が出るレベルまで悪化。9月には渡米してスポーツ医学界の権威、フランク・ジョーブ博士の執刀で手術を受ける。そこからは負傷箇所を騙しながらプロ生活を送る。主な仕事は三塁守備固め兼右の代打。ヤクルト時代と同じく、その素質と人気を見込んでロッテや西武からのトレード打診が報じられたが、父が息子を放出することはなかった。