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旗手怜央の「よろしくない言葉」に家本政明がとった行動とは? 変化したレフェリングの質「一緒にいいゲームをしましょうよ」
posted2022/01/13 17:01
text by
二宮寿朗Toshio Ninomiya
photograph by
J.LEAGUE
家本政明はどうしてレフェリーを目指すようになったのか――。
元々はトッププレーヤーを目指していた。中学・高校時代には県選抜や地域選抜にも選ばれたサッカー少年は同志社大学に進学して、1年時からトップチームに入っていた。だが、激しい運動をすると吐血してしまう症状に悩まされ、医師からの勧めもあってプレーヤーを断念せざるを得なくなる。
サッカーから離れたくない。その思いもあって独断でレフェリーになることを思い立ち、部の協力も得ながら在学中に1級審判員の候補者になり、翌年には当時史上最年少で1級審判員の資格を取得した。
とにかく楽しかった。ボランチから見る光景と似ていた。プレーヤーではなくなったものの、一番間近でサッカーを楽しめている感覚はたまらなかった。
史上最年少の32歳でプロの審判員に
卒業後に京都パープルサンガに入社したのも、一般の試合においてレフェリーとしての活動を認められたことも理由にあった。運営担当などクラブの仕事にもやり甲斐を感じたが、報酬を得られるプロレフェリー制度ができたことを機に2003年に退社。イベント会社に転職して、翌々年に史上最年少の32歳でプロの審判員として日本サッカー協会と契約した。
若いレフェリーだけに年上の選手も多く、なめられているなと感じたことは多々ある。エキセントリックに反応して「逆ギレ」と指摘されたこともある。競技規則のもと毅然とやり通すことでコントロールしたいと考えるのも致し方ないところがあった。
原点はサッカーを全力で楽しみたい。みんなと一緒になって楽しんでいた男から、その要素がいつしか薄らいでいく。
2008年3月のゼロックススーパーカップで「不可解判定」と猛バッシングを浴び、6月になってJリーグの担当に復帰以降は落ち着いたジャッジが目立つようになった。とはいえ、彼に劇的な変化があったわけではなかった。「意義」を得るには、ある程度の時間が必要だった。
2010年にはウェンブリーでイングランド代表とメキシコ代表の親善試合を担当した。プレースピードは経験したことがないほど速かった。試合にのめり込むと、順応できていく自分がいた。本場の人たちからそのレフェリングは讃えられた。翌年も審判員交流研修プログラムで再びイングランドへ渡った。サッカーを心から楽しむことでレフェリングが向上していくような感覚を持った。