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昭和のパ・リーグファンがケンカ、ダイエー選手バスに生卵投げつけ事件も…大阪で愛された“消えた野球場”「日生球場」、今は何がある? 

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鼠入昌史

鼠入昌史Masashi Soiri

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photograph bySankei Shimbun

posted2021/12/31 11:06

昭和のパ・リーグファンがケンカ、ダイエー選手バスに生卵投げつけ事件も…大阪で愛された“消えた野球場”「日生球場」、今は何がある?<Number Web> photograph by Sankei Shimbun

1996年5月、日生球場でプロ野球最後の試合となった近鉄対ダイエー戦。翌97年に閉鎖されたが…日生球場、今は何がある?

 もちろん、とうに日生球場は解体されてその姿はない。そこにあったのは、「もりのみやキューズモールBASE」という商業施設である。 

大阪城すぐ近くの好立地…なぜ野球場ができた?

 日生球場は、戦後まもない1950年に誕生した。名前の通り、日本生命が福利厚生と社会人野球の発展、そして市民の一般利用のために建設した野球場であった。

 大阪城のすぐ南というとてつもない好立地に野球場ができた理由は、戦争で大阪城周辺が焼け野原になっていたから。じつは大阪城とその周囲は、近代以降陸軍の施設として使われていた。とうぜん米軍の空襲のターゲットになってしまったわけで、焼け野原になって終戦を迎えた。

 軍の施設は戦後になってGHQに接収され、焼け野原の周辺では鉄くずを拾って売って身を立てる“アパッチ族”が跋扈する。そんな町に、日生球場は誕生した。

 日生球場の建設にあたって、当時住宅不足が社会問題になっていたこともあって、GHQは「野球場を建てる資材があるなら住宅建設に回せ」と勧告したという。しかし、日本生命は「一般市民に広く使ってもらって文化国家再建に寄与する」と突っぱねた。結果として1950年というまだ占領下にあった日本において、大阪のど真ん中に野球場が誕生したのである。さっそく同年から毎日オリオンズ対南海ホークス戦にはじまり21試合ものプロ野球の試合が行われている。

 近鉄が本格的に日生球場を使用するようになったのは1958年からのことだ。日生球場誕生と同じ1950年からプロ野球に加わった近鉄は、当初から藤井寺球場を本拠地としていた。しかし、藤井寺球場にはナイター設備がなく、ナイター試合の折には仕方なしに南海の本拠地・大阪球場を間借りしていた。それではスケジュール面も含めてさすがにちょっと困る、ということで近鉄のおカネで日生球場にナイター設備を整備し、準本拠地球場として使用することになったのだ。

日生球場は「狭くてホームランが出まくった」

 そこから日生球場は長らく近鉄の事実上の本拠地球場として使われるようになる。もともとの本拠地である藤井寺にもナイター設備整備が計画されたが、そちらは周辺住民の人たちの反対でなかなか前に進まなかった。そんなわけで、近鉄のナイター試合はほぼ日生球場で行われるという時代が続いたのである。

 ナイター設備が整った当時の日生球場は、「日本一明るい」という前評判も手伝って大盛況だったという。1958年のシーズンには近鉄が実に95試合を戦った。ただ、球場の狭さが原因でホームランが出まくった。当時黄金時代の西鉄ライオンズを率いていた三原脩監督は「こんなにホームランが入ったら落ち着いて試合がやれませんよ。この球場を公認したなんて……これでいいんですかね。本塁打がこわくて試合ができませんよ」と辛辣な評価を下している。

【次ページ】 なぜ24年前、日生球場は“消えた”のか?

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