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昭和のパ・リーグファンがケンカ、ダイエー選手バスに生卵投げつけ事件も…大阪で愛された“消えた野球場”「日生球場」、今は何がある?
text by
鼠入昌史Masashi Soiri
photograph bySankei Shimbun
posted2021/12/31 11:06
1996年5月、日生球場でプロ野球最後の試合となった近鉄対ダイエー戦。翌97年に閉鎖されたが…日生球場、今は何がある?
球場周辺は戦後復興とともに瞬く間に市街化していったので、球場の拡張も思うようにはいかなかったのだろう。
1979年には近鉄が初優勝を飾ったが、日本シリーズは収容人員3万人以上が開催球場の要件。2万人強の日生球場で日本シリーズを戦うことはできず、結果としてこの年の名勝負、“江夏の21球”は大阪球場が舞台になっている。
近鉄本拠地時代、選手たちは観客と同じように森ノ宮駅から日生球場まで“通勤”し、森ノ宮駅の駅員は試合途中に観客数を数えに行くのが仕事だったとか。当時の大阪のパ・リーグファンは試合後にケンカを起こすことも珍しくなく、そのための対策として駅では2名駅員を増やしていたという。
なぜ24年前、日生球場は“消えた”のか?
そうこうしているうちに、1984年になると藤井寺球場に念願のナイター設備が完成してしまう。そうなると日生球場の出番も減少することになって、1984年に日生球場で行われた近鉄戦はたったの19試合。それ以降も10試合前後しか行われなくなり、準本拠地というにもほどとおい有様になってしまった(オリックス・バファローズとほっともっとフィールド神戸の関係に近いかもしれない)。
それでもアマチュア野球の聖地としての存在感は大きく、日生球場では夏の甲子園大会の大阪府予選はもちろんのこと、関西学生リーグ・近畿学生リーグ・関西六大学リーグといった学生野球、さらに都市対抗野球の大阪府予選などが行われた。1985年の夏の甲子園予選決勝では、PL学園の清原和博が防球ネット直撃の特大ホームランを放っている(つまりは事実上の場外ホームランだ)。近鉄がほとんど日生球場を使わなくなった1990年代後半になっても、アマチュア野球を中心に実に200日以上使われている。
そんな愛されしアマチュア野球の聖地だったが、戦後1950年に狭い敷地に建てられた野球場の老朽化は着々と進んだ。90年代半ばに大阪ドームや舞洲ベースボールスタジアムなどの建設が決まっていくなかで、日本生命は日生球場の役割は終わったと判断。1996年に翌1997年限りでの日生球場閉鎖を決定したのである。
ダイエー選手バスへの生卵投げつけ事件
日生球場でのプロ最終戦は1996年5月の近鉄対ダイエーの3連戦。3試合目では、敗れたダイエーの選手たちが乗るバスにファンたちが生卵を投げつける事件も起きている。