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日本シリーズ絶望が報じられても「伊藤智仁は絶対に投げてくる」…森祇晶と野村克也、名将同士の“静かなる心理戦”の内幕
posted2021/11/16 17:04
text by
長谷川晶一Shoichi Hasegawa
photograph by
BUNGEISHUNJU
1992年の日本シリーズで、第7戦の延長10回までもつれる大接戦の末に、森祇晶監督率いる西武に敗れたヤクルト。野村克也監督のもと、翌1993年はシーズン前から「打倒西武」を掲げてセ・リーグ連覇を果たした。しかし前半戦で大活躍したスーパールーキーの伊藤智仁は、右ひじの負傷で戦線離脱。それでも野村は、登板できない伊藤の名前を日本シリーズ出場40人枠に記した。決戦を前に、2人の知将が繰り広げた“心理戦”とは(全2回の2回目)。※本稿は『詰むや、詰まざるや 森・西武 vs 野村・ヤクルトの2年間』(インプレス)の一部を抜粋、再編集したものです。
一年前は、圧倒的に「西武有利」の声が多かった。
しかし、一年のときを経て状況は変化した。「両者互角」の声の一方で、「ヤクルトに勢い」といった論調が目立つようになっていた。
前年の経験を経て、さらにたくましく育ったヤクルトナインと比べ、西武はデストラーデが抜け、チームリーダーの石毛宏典は37歳となり、辻発彦も35歳となっていた。
このとき、38歳を迎えていた平野謙が述懐する。
「この頃、自分の感覚と実際のプレーとのズレを感じ始めていました。たとえば補殺でも、“よし、アウトにできる”と思ったプレーがセーフになったり、“よし、捕れる”と思ったボールが捕れなかったり……。実はこの時期、誰にも内緒で少しグローブを大きくしたんです。守備位置もそれまでよりも少し前で守るようにしました。少しずつプレーに影響が出始めていたのが、この頃でした」
巨人のV9時代がそうであったように、不動のレギュラーによるメンバーの固定化は圧倒的な強さを可能とする一方で、同時多発で高齢化を生み出す原因ともなっていたのだ。
デストラーデは自信満々「四勝一敗で西武が勝つ」
マジック1から九日間も足踏みをしたままようやく優勝した西武に対して、ヤクルトはシーズン終盤に十一連勝を挙げて一気に優勝を決めた。勢いに乗ったときの爆発力は、若さに勝るヤクルトに一日の長があった。
岡林、そして伊藤の故障は気がかりだったが、前年にはいなかった川崎、内藤、高津、山田と、ヤクルト投手陣は92年よりも明らかに質量ともに充実しており、西武の偵察部隊は警戒感を強めていた。