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なぜ「指導は軍隊式だし選手を平気で殴る」トルシエが日本代表監督に?《ベンゲルにフラれた後》の知られざる候補と就任の真相
posted2021/11/10 11:05
text by
田村修一Shuichi Tamura
photograph by
Kazuaki Nishiyama
「伊東選手の母親が昨夜亡くなりました。彼の悲しみを尊重して、私は何も話さないことにします。この残酷な悲しみに比べたら、サッカーの試合は取るに足らないことだ。ありがとう。さようならみなさん」
母親を亡くした伊東輝悦への弔辞だけを述べると、フィリップ・トルシエは通訳も終わらないうちにメディアで溢れかえる会見ルームを後にした。何が起こったのか訳がわからず、茫然と見送る記者たち。1998年10月28日、大阪・長居スタジアム。フランスW杯後の最初の公式戦であり、トルシエの監督就任後最初の試合でもあったエジプト戦に勝利した後の、監督会見の席での出来事である。
トルシエは、スタートから強烈なインパクトを日本に与えた。それはサッカーとは直接関係のないピッチの外でのことであったが、広い意味ではサッカーとも結びついていた。少なくともトルシエにとっては、サッカーと同様かそれ以上に大事なことであり、人間的な側面を欠いたらサッカーにおける進歩もあり得ないという彼の信念がそこにはあった。
意中の人はアーセン・ベンゲルだったが……
だが、その表現があまりに唐突であったために、共感よりも前に誰の理解も得られなかった。エキセントリックさよりも神妙さのほうが強い印象を残したが、それはほんのはじまりにすぎなかった。トルシエと日本の嵐のような4年間が、ここから始まったのだという実感は、彼に対する予備知識をある程度得ていた私でさえ、このときはまだ感じることができなかった。噂通りのちょっと変わった監督だな、というのが正直な印象だった。
初出場のフランスW杯を3連敗で終えた日本にとって、岡田武史の後を継ぐ代表監督を誰にするかは重大な問題だった。韓国と共同開催する次の2002年大会では、グループリーグ突破が絶対のノルマであり、そのために日本代表を誰の手に委ねるかは、日本サッカー協会が下すべき最も重要な決断であった。
意中の人はアーセン・ベンゲル。名古屋グランパスを短期間のうちにJリーグ最高レベルのチームへと変貌させ、ヨーロッパに戻ってからも選手の高齢化が顕著なアーセナルを、養老院と揶揄されたディフェンスラインはそのままに、2シーズン目にはリーグとカップ優勝のダブルクラウンに導いた。能力は折り紙付きである。
だが、ベンゲルは、早々にアーセナルとの契約を更新し、日本への扉を閉じた。日本協会から相談を受けたフランス協会が作成した候補者リストには、レイモン・ドメネク(当時五輪代表監督。後にA代表監督として2006年W杯準優勝)やギィ・ステファン(当時ナショナルコーチングスタッフ。その後ロジェ・ルメール監督のアシスタントコーチとしてEURO2000優勝。現在はディディエ・デシャン監督のアシスタントコーチを務めEURO2016準優勝。2018年ロシアW杯優勝)らと並びフィリップ・トルシエの名前も記されていた。
国際監督シンポジウムに、トルシエは講師として招かれた
日本から相談を受けたジャン・ベルバックフランス協会副会長――日本贔屓でムッシュー・ジャポンの異名を持つ――とベンゲルの強い推薦もあり、W杯期間中に日本協会の意向はトルシエへと傾きつつあった。私がトルシエと初めて顔を合わせたのもそんなさなかだった。場所はパリのパルク・ドゥ・ラ・ビレットにあるシテ・デ・シエンス。ここで準々決勝を直後に控えた7月1~2日の2日間にわたっておこなわれた国際監督シンポジウムに、トルシエは講師として招かれたのだった。