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“父は東宝会長、母は宝塚スター”松岡修造54歳に 熱すぎる男が現役時代にこぼした弱音「このまま死んでしまいたい」
text by
山口奈緒美Naomi Yamaguchi
photograph byAFLO
posted2021/11/06 11:05
1995年のウィンブルドンで、日本人の男子選手62年ぶりとなるベスト8進出を決めた松岡修造
振り返れば試練の連続だった。長身のビッグサーバーはプロデビューから2年も経たずにランキングを100位台に乗せてきたが、早くも21歳のときに両膝の手術に追い込まれる。翌年3月にはプロ転向後最悪の445位までランキングを落としたが、その年のうちに130位台まで戻した。
挫折と苦悩のなかで漏らした弱音
全豪オープン、ウィンブルドン、全米オープンと3つのグランドスラム大会を含め、14大会に予選からチャレンジし、うち9大会を突破した松岡は当時、“King of Qualifying(予選の王様)”と呼ばれたものだ。ところが10月、カムバックの総仕上げで臨んだ東京のセイコー・スーパーで試合中に転倒し、足首の靭帯3本の損傷という大怪我を負った。
それでも翌91年2月にブラジルのチャレンジャーで早くも復帰し、第3戦で優勝。ランキングを二桁台に再び戻し、翌92年7月には自己最高の46位をマークする。これは2011年に錦織圭が抜くまで日本男子の最高位であり続けた。しかし、期待が膨らんだ矢先、93年のシーズン開幕は伝染性単核球症に感染する不運で出遅れ、3カ月のブランクを強いられて再び100位以下へ陥落。 それまでどん底からも這い上がってきた松岡だったが、以後2年あまりの間、目標の二桁台には一度も届かず、チャレンジャー大会で過ごすことも多くなった。
「もう松岡は終わった」という声はささやきどころではなく、確実に本人の耳にも入るくらい大きくなっていた。才能や運ではなく、努力でそこまで来た人だと知っていたから、その努力ももう限界だと感じたのだ。その先にあのウィンブルドンがあったのだが、その年でさえ前兆はなかった。それどころか、2月のデビスカップでは脚の痙攣で世界ランク700位台の選手を相手に途中棄権し、日本はフィリピンに敗れ、「このまま死んでしまいたい」と漏らしたほどのダメージを負っていた。
修造の母「テニス、テニス、テニスの子でしたから」
10年間、日本の男子テニスを一人で背負ってきたことにも重荷を感じなかったはずはない。それでも「テニスのためならできることはなんでもやる」というのが松岡の姿勢だった。母親の静子さんはあの大会中、囲まれた記者たちにこう話した。
「初めてあの子の日常生活を間近で見て、何年もの間、なんて辛く厳しい生活をしてきたんだろうと思いました。本当に、テニス、テニス、テニスの子でしたから、どうしても勝たせてやりたかった」
サンプラス戦のあとの父の言葉は対照的だ。