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“父は東宝会長、母は宝塚スター”松岡修造54歳に 熱すぎる男が現役時代にこぼした弱音「このまま死んでしまいたい」 

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山口奈緒美

山口奈緒美Naomi Yamaguchi

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posted2021/11/06 11:05

“父は東宝会長、母は宝塚スター”松岡修造54歳に 熱すぎる男が現役時代にこぼした弱音「このまま死んでしまいたい」<Number Web> photograph by AFLO

1995年のウィンブルドンで、日本人の男子選手62年ぶりとなるベスト8進出を決めた松岡修造

 母の静子(後に改名し、現在は葆子)さんはそのウィンブルドンで初めて遠征に同行していたが、父・功氏の姿は4回戦まではなかった。大学4年生だった1956年にデビスカップの日本代表にもなった元プレーヤーだったが、実業家として多忙の身であったし、息子のテニスに積極的に関わる父ではなかった。

 修造は長い間、父がテニス選手だったことを知らなかったが、試合のあと家に帰って父に会うのがいつも怖かったという。その厳しさは、自身のキャリアと無関係ではないだろう。

厳しかった父がサンプラス戦は駆け付けた秘話

 2016年に日経新聞の名物連載『私の履歴書』に登場した功氏は、テニスプレーヤーの道を選ばなかった当時の心情についてこう綴っている。

「プロとして生活できる道があったならプロを志しただろう。しかし当時の日本にはプロテニスプレーヤーはおらず、テニスを続けるにはスポーツ採用枠を持つ企業に就職し、仕事の傍ら試合に出て、会社の広告塔の役割を果たすしかなかった。(中略)

 試合のために年間4、5カ月は出社できないから、責任ある仕事を任せてもらうのは無理だ。選手としての寿命が尽きたときには、同期生から置いて行かれているだろう。先々のことを考えると『これでいいのだろうか』と思うようになった」

 こうして父はテニスを捨てた。だから、自分と同じ次男である修造の選んだ道に、心配と同時に厳しい目が向くのは無理もなかった。

 さすがにサンプラス戦は、ニューヨークへの出張を急きょロンドン経由にしてやってきたのだという。松岡自身が「シューズがもうないから持ってきてほしい」と口実を作って呼んだのだという話は、随分あとになってから知った。

恵まれたからこその「葛藤や劣等感」

 恵まれた家庭環境に、恵まれた体格――日本の男子テニスプレーヤーの中で松岡は特別な人だった。特別だからあの時代、世界で戦える日本唯一の男子プレーヤーでいられるのだと見られた。しかし実際のところ、そのキャリアは挫折と苦悩の連続で、普通の人にはわからない、特別だからこその葛藤や劣等感が子供の頃からあったのかもしれない。

【次ページ】 挫折と苦悩のなかで漏らした弱音

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松岡修造
ピート・サンプラス

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