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日曜朝の張本勲が炎上後《喝!》を自粛してるけど… 「昭和なオヤジの親分」大沢啓二が亡くなってバランスが崩れたのでは? 

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広尾晃

広尾晃Kou Hiroo

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photograph byWataru Sato/Naoya Sanuki

posted2021/11/07 06:00

日曜朝の張本勲が炎上後《喝!》を自粛してるけど… 「昭和なオヤジの親分」大沢啓二が亡くなってバランスが崩れたのでは?<Number Web> photograph by Wataru Sato/Naoya Sanuki

日曜朝の「喝!」と言えば、張本勲と“親分”こと大沢啓二だった

 当時の南海ホークスは、中央大の穴吹義雄、立教の大沢、杉浦忠、法政大の長谷川繁雄と大学のエリート選手を取り、高卒たたき上げの岡本伊三美、野村克也、広瀬叔功、皆川睦雄らと競わせた。その結果、選手としてはたたき上げのほうが成功したが、指導者としては大卒選手の多くも実績を上げた。鶴岡一人の慧眼だと言えよう。

 大沢は引退後、ロッテの監督を経て日本ハムの監督となり、1981年にはリーグ優勝も果たしている。

日本ハム監督として張本をトレードした因縁

 張本勲と大沢啓二はただの一度だけ、野球史で交差している。1976年、日本ハム監督になった大沢は、主力打者だった張本勲を巨人にトレードしているのだ。

 この年、私は日生球場で張本を見ているが、近鉄応援団から「はりもとおー、お前は悩みを持っている」とヤジられながらも、にっと笑いながら打席に向かう張本には、黒光りするような迫力があった。

 大沢は張本を放出して新たなチームを構築し、日本ハムを優勝に導いた。一方の張本も長嶋巨人で大活躍し、連覇に貢献したから結果的にウィンウィンではあったが、因縁の間柄ではあったのだ。

 張本勲は、日拓で短期間コーチを務めた以外は、指導者にはならなかった。しかし1980年に韓国にプロ野球(KBO)が誕生するとNPBの在日韓国人選手を何人も紹介するなど、KBOの発展に尽力した。

 張本は誰かと群れることはなく、孤高の存在だった。打撃論は鋭く、現役選手にも容赦ない批判を浴びせた。その辛辣さが、野球界で敬遠されたという一面はあったかもしれない。張本勲はプロレスラーの力道山と大変親しかったが、力道山同様、そのずば抜けた能力と実績ゆえに周囲に恐れを抱かせるキャラクターだったのかもしれない。

大沢親分が頭の上がらなかった3人とは

 大沢はその「べらんめえ口調」で親分と言われ、強面のように見られたが、実際は常に頭の上がらない存在が3人いた。

 1人目は16歳年上の兄、大沢清。今となっては球史に埋もれてしまったが、戦前、1リーグ時代では川上哲治に次ぐ名一塁手で通算1439安打。実績も弟啓二よりもはるかに上だった。不良になりかかった大沢啓二を野球の道に連れ戻したのは兄の清だ。のちに國學院大學野球部監督、文学部教授になったが、太っ腹な人格者で、慕う人が多かった。ある國學院OBは「俺たちにとって大沢親分といえば、清先生のことだ」といった。

 続いて南海の大監督、鶴岡一人。大沢の人脈で長嶋茂雄を獲得しようとしたが失敗。長嶋は鶴岡、大沢のもとに断りに来て、涙を流して土下座をした。大沢は「長嶋、てめえは!」と怒鳴ったが、鶴岡は「まあまあ、もうええやないか」ととりなしたという。やくざ映画の1シーンのようだが、大沢啓二の「親分ぶり」は、鶴岡のコピーなのかもしれない。

【次ページ】 1人は辛口、1人はマイルドというバランス

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