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《手記》“日本一嫌われた審判”家本政明が綴る半生 ゼロックス杯の悲劇「僕は評価と規則の奴隷」だった

posted2021/11/02 11:02

 
《手記》“日本一嫌われた審判”家本政明が綴る半生 ゼロックス杯の悲劇「僕は評価と規則の奴隷」だった<Number Web> photograph by J.LEAGUE

2008年、シーズンの幕開けとなるゼロックス杯の主審を務めた家本氏。退場者3名を出す判定に批判の声が相次いだ

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家本政明

家本政明Masaaki Iemoto

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J.LEAGUE

11月1日、プロフェッショナルレフェリーであり、Jリーグ担当審判員の家本政明氏が今シーズン限りで国内トップリーグを担当する審判員から退くことを発表した。これまで国際舞台やJリーグのピッチに立ち、正当なジャッジを志しながらも、勝利を揺るがした判定や退場者を誤ったミスジャッジによって時に罵声を浴びることもあった。自ら「日本一嫌われた審判」と振り返るその半生を綴った記事を再公開します(全2回の前編/後編へ) ※初出し:2021年2月3日配信/肩書きなどは全て公開当時

【第1章 評価と競技規則の奴隷/2005年~08年】

 はじめに――。

 19歳のときに始めた審判活動も、今シーズンで29年目を迎えます。この間、国内外合わせて1200試合以上の公式戦を担当してきました。

 最近では「名前を聞いて安心できる審判」「選手と一番コミュニケーションをとる審判」「今一番面白い試合をする審判」という声をたくさん聞くようになりましたが、それはひとえに、誰よりも数多くの失敗を経験し、批判と失敗に向き合い、改善に改善を重ね、常に「サッカーの本質」を問い続け、その実現に挑戦してきたからだと思います。

 辛く苦しい経験でしたが、もしかするとその経験が、仕事やプライベートや人間関係で悩んだり、苦しんだり、辛い思いをしている多くの方の役に立つのではないかと思いました。どうぞ「日本一嫌われた審判」の審判人生を、楽しんでお読みいただけたらと思います。

自ら招いた「闇の世界」

 まずは、僕が審判を始めた頃の話をしようと思います。

 プレーヤーとしてプロを目指していた大学1年の初夏の頃、フィジカルトレーニングをしていた時に急に気持ちが悪くなり、胃から熱いものが逆流してくるのを感じながら思わず吐き出しました。吐き出したものは、黒く濁った大量の血でした。

 それは高校時代から続く、僕にとっては見慣れたものでしたが、量が違いました。この量はさすがにマズイと思い、翌日、京都の大きな病院に行って検査を受けたところ、ドクターから「長生きしたいなら、もう激しい運動はやめたほうがいい。君の身体は激しい運動や強いストレスに耐えられない。医者としては勧められない」と、突然の “引退勧告” を受けました。

 小学3年から続けてきたサッカーなので、正直、目の前が真っ暗になりました。とはいえ、命には代えられないので、ボールを蹴る以外の形でサッカーに関わろうと思いました。いろいろ考えた結果、吐血の心配はあるものの、高校の頃に少しだけ経験した審判の世界に挑戦することにしました。

 なぜ指導者ではなく、見る側でもなく、審判だったのか。

 僕がプレーヤーだったときは、全体を理解したり、人やチームを動かしたり、まとめたりするポジションが好きでした。高校の時に何度か経験した審判は、スイーパーやボランチの仕事よりもっと難しかったのですが、とても似ているな、サッカーの面白さがわかる仕事だなと興味を持っていました。監督からも「お前うまいな。センスあるよ」と褒めてもらった記憶があります。

 幸運なことに、審判を始めてからトントン拍子で昇級して、短期間で1級審判員になることができました。トレーニングを自分でコントロールできる分、その間は吐血もありませんでした。

 その後、勤めていた会社の都合で6年間ほど審判活動がままならない時期もありましたが、32歳のときに日本サッカー協会から「国際審判とプロ審判として活動してみないか」という、とてもありがたい話を頂きました。

 大学卒業後に飛び込んだ「サッカービジネス」の世界は、とても面白くやりがいを感じていたものの、「審判をもっとうまくなりたい。極めたい」という強い想いから、審判活動がやりやすい環境を求めて転職していたので、何の迷いもなく “プロの世界” へ挑戦することに決めました。

【次ページ】 サッカーの本質と向き合う意識がなかった

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