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《手記》“日本一嫌われた審判”家本政明が綴る半生 ゼロックス杯の悲劇「僕は評価と規則の奴隷」だった
text by
家本政明Masaaki Iemoto
photograph byJ.LEAGUE
posted2021/11/02 11:02
2008年、シーズンの幕開けとなるゼロックス杯の主審を務めた家本氏。退場者3名を出す判定に批判の声が相次いだ
「これからめちゃくちゃ面白い審判人生が待っているぞ!」と、期待に胸を膨らませて開いた “プロ審判の世界” の扉ですが、僕は誤って「きらびやかな世界」の方ではなく、「暗く憎悪に満ちた世界」の扉を開けていました。
それは全て自分の未熟さが引き寄せた結果なのですが、この扉を開けたことによって、僕は十数年間も地獄を味わい、苦しむことになります。
その苦労も苦しみに対しても、当時の僕は人としての未熟さから、「悪いことをしているのは選手なのに、なんで正しい判定をしている自分が叩かれるのか理解できない。判断を委ねたのは選手なのに。みんな絶対に間違っている」と思っていました。
今では、「え、おまえ何言ってんの? そりゃ、おまえが悪いからだよ。問題は判定が正しいかどうかじゃないんだよ。おまえが選手と向き合わない。お客さんと向き合わない。サッカーと向き合わない。審判側からの評価や競技規則にしか向き合っていないからだよ。それだけじゃなくて、自分の価値観を押しつけて、 “歪んだ正義感” を押しつける。だからうまくいかないんだよ」と言えるのですが、残念ながら当時は、このことに気づくことができませんでした。このころの僕は、完全に “評価と競技規則の奴隷” でした。
そんな僕が担当したのが、2008年の「富士ゼロックス・スーパーカップ 鹿島アントラーズvs.サンフレッチェ広島戦」でした。
サッカーの本質と向き合う意識がなかった
ゼロックス杯は、Jリーグのシーズン開幕を告げるとても大事な試合です。それだけでなく、選手や多くの方に今シーズンの判定基準を示す重要な試合でもあります。そんな重要な試合の割当を頂いたときには、うれしさの反面「こんな大役、僕で大丈夫なのか。僕にできるのか」という不安が少なからずありました。
審判上層部の期待に応えるためにも(こういう考えをしている時点で当時の僕は選手やサッカーと向き合っていないダメ審判です)、万全の準備をして試合に臨みました。そして試合前には「しっかりと基準を示してくるように」と、強く背中を押されて国立競技場の審判控室を出ていきました。
このとき、僕の頭の中には、「選手のやりたいことをできるだけ引き出そう」とか、「サッカーフェスタのような皆が喜べる、楽しめる試合にしよう」といった、サッカーの本質や人々の喜びと向き合う意識は全くありませんでした。「警告や退場の基準をしっかりと示さなきゃ」とか「ファウルも細かく丁寧に取らなきゃ」、あるいは「なめられないよう強く、厳しくいかなきゃ」といった、全く不要でおかしな考えをもつことしかできていませんでした。
試合を導く人がそんな考えをしていて、試合が面白く、楽しめるものになるわけないですよね。
「悲劇」を引き起こした3つの原因
試合は皆さんご存知の通り、大会史上最もひどいものになりました(※前半のうちに両者から退場者を出すなど、計14枚のカードが乱発され、PK判定においても抗議が相次いだ。試合後は「判定で一貫性を欠いた」として、家本氏には無期限の割り当て停止という厳しい処分が下っている)。
何が良くなかったのか。細かく言えばいろいろあるのですが、大きなポイントとしては3つあると思っています。
1つ目は「判定基準」を示そうと気負い過ぎたこと。2つ目は「判定の正確さ」だけを追求したこと。3つ目は「競技規則」に囚われ過ぎて柔軟さが足りなかったことです。
今の僕があの試合を担当したとすると、あれほどファウルの笛は吹かなかったでしょうし、カードもあんなに「大盤振る舞い」しなかったでしょう。もっと語りかけ、諭し、ガス抜きをし、間を取り、あの手この手を使って、選手を試合と自分のやるべきプレーに集中させるように導いたと思います。
そういうことができていれば(十分できたと思いますが、当時は “評価と競技規則の奴隷” でした)、いまさら遅いですが、岩政大樹選手も、李漢宰選手も、大岩剛選手も、みな退場にならないように導けたと思います。
でも、そうすることができなかった。
その結果、試合後はサポーターがフィールドに乱入してきたり、選手が審判を嘲笑したり、侮辱したり、日本サッカー協会やJリーグの関係者もメディアに向かって名指しで僕を批判することもなかったと思います。
全ては僕の未熟さ、浅はかな考え方、偏った価値観が招いたものです。