Sports Graphic Number MoreBACK NUMBER
「藤井さんの対局は特に見ていますが…」 羽生善治との竜王戦で見せた豊島将之の温かさと《名人経験者が戦慄した“豊島の鏡”》とは
text by
大川慎太郎Shintaro Okawa
photograph by日本将棋連盟
posted2021/10/30 06:00
第34期竜王戦第2局の豊島将之竜王。藤井聡太三冠に対してどのような戦いを見せるか
時折、両者は席を立ち、橋掛かりを通って自室と舞台を行き来した。能で橋掛かりは「あの世とこの世の架け橋」とも言われる。豊島も羽生も対局中は思考の海へ潜り、息継ぎのためにたまに地上に戻ってくる。
羽生の軽微なミスを衝いた豊島が開幕戦を制した。30年以上の歴史を誇る竜王戦七番勝負史上、最短手数の52手。そして双方、なんと玉を一度も動かすことなく決着したのだ。1976年以降のタイトル戦では例がないという。一つならまだしも、レアな事象が二つ重なることはまずない。この先には一体何が待っているのか。期待よりも恐れを先に覚えた。
体調不良の羽生をいたわる温かさ
豊島の唯一の敗戦となった第2局では、得意の角換わりに誘導するも、最終盤で羽生が放った鮮やかな決め手に屈した。「見えなかった」と悔やむ豊島。完全に読みの量で上回られていた。
豊島が逆転勝利を収めた第3局では、羽生に異変が起きていた。初日から頭痛がしており、京都から帰宅後に発熱。無菌性髄膜炎で入院し、直後に予定されていた福島での第4局の開催が危ぶまれた。移動日の前日、日本将棋連盟常務理事の森下卓九段から豊島に連絡があった。だが着信に気づかず、移動日の朝に留守番電話を聞いて、羽生の体調不良を知った。
延期を正式に伝えられたのは、東京駅の新幹線ホーム。森下常務理事が「申し訳ないけど、このまま福島に行ってもらえませんか」とすまなそうな顔で豊島に依頼していた。快諾した豊島は現地に赴いてファンとの交流を図った。
挨拶では「体調不良は誰にでも起こることです。羽生九段の一日も早い、体調の回復をお祈りしています」と述べた。第一人者らしい懐の深さと温かさがあった。
羽生から受け取った謝罪の手紙に速達で
福島では対局場の温泉旅館に1泊した。「もう1泊しては」という誘いもあったが、丁重に断って地元の兵庫県に帰宅。「対局があったので勉強したかった」。
その後、羽生から謝罪の手紙を速達で受け取り、「お大事にされてくださいという趣旨」(豊島)の返信を、やはり速達で送った。シリーズ中に対局者が盤外でやり取りすることは極めて珍しい。そもそも延期が異例だが、感情のしこりは一切ない。
「気をつけていてもどうにもならないことがあります」と豊島は後に語っている。
延期された第4局は、竜王の強さが際立っていた。ミスらしいミスがなく、後日に「そこそこの手を積み重ねられたのがよかった」と語った。凄みのある言葉だ。そこそこの手を積み重ねることがどれだけ難しいことか、豊島が知らないはずがない。
運命の第5局は羽生の指し回しが冴えわたったが、形勢不利になってから豊島が底力を発揮し、正着を続けて逆転に成功。シリーズ4勝1敗で羽生を打ち破った。
羽生の称賛に思い出した、ある情景
間違いないのは、全体的に高品質だった羽生の指し手を、豊島が上回っていたことである。シリーズ後に羽生に竜王の印象を尋ねると、「心技体、すべてが充実されている印象を受けました」と称えている。
それを聞いて、ある情景を思い出した。