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長嶋一茂「大野豊のボールなんて全然見えない」、増渕竜義「ずっとプロ野球選手でいたかった」…ドラ1選手たちの“現実”とは
text by
元永知宏Tomohiro Motonaga
photograph bySankei Shimbun
posted2021/10/13 11:03
1987年ドラフト会議、1位指名で立教大からヤクルトに入団した長嶋一茂
「長嶋さん、プロはどうですか?」
神宮球場ですれ違った時、先輩にそう聞いたことがある。
「プロ野球はアマチュアとは違うんだ。広島(東洋カープ)の大野(豊)のボールなんて、全然見えない」
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そんな言葉が返ってきた。
プロ野球とアマチュア野球は地続きではない。どんなに輝かしい栄光も実績もそこには持っていけないのだ。
その後、スポーツライターとして、多くのドラフト1位選手を取材するようになった。将来を嘱望されながら夢破れた選手たちに、「なぜユニフォームを脱いだのか?」と聞いた。
人気球団の重圧、イップス…「ずっとプロ野球選手でいたかった」
人気球団のプレッシャーについて『期待はずれのドラフト1位』(岩波ジュニア新書)で話してくれたのが、99年ドラフト会議で阪神タイガースに1位指名された的場寛一だった。弥富(現・愛知黎明)時代に甲子園出場経験はなし。その後、九州共立大学に進んだ彼は、走・攻・守が揃ったショートとして高い評価を受けていた。的場が入団当時をこうふり返った。
「キャンプで、報道陣がバッティングケージの後ろにずらっと並んで、私にカメラを向けています。一球ごとにシャッターが切られるのですが、その『カシャッ、カシャッ』という音が重なって、すごい重圧を感じました」
的場のプロ野球人生には、ひざの靭帯移植手術、右肩の脱臼など、故障がつきまとった。阪神での6年間で出場したのは24試合だけ。記録したヒットは7本。戦力外であることを告げられたのは、タイガースの優勝に沸く05年の秋だった。
「阪神にいた6年間はケガばかり。『今度こそ!』と思ったらケガでチャンスをフイにする、そんなプロ生活でした」
一方、華々しいスタートを切っても、それを長く継続するのは難しい。
増渕竜義は、駒大苫小牧の田中将大(楽天イーグルス)が目玉だった06年ドラフトで東京ヤクルトスワローズから1位指名を受けた。07年10月4日にプロ初勝利、11年には22試合に先発し、7勝を挙げている。しかし、27歳という若さでユニフォームを脱ぐことになった。