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長嶋一茂「大野豊のボールなんて全然見えない」、増渕竜義「ずっとプロ野球選手でいたかった」…ドラ1選手たちの“現実”とは
text by
元永知宏Tomohiro Motonaga
photograph bySankei Shimbun
posted2021/10/13 11:03
1987年ドラフト会議、1位指名で立教大からヤクルトに入団した長嶋一茂
彼は『敗者復活』(河出書房新書)で「イップスが原因だった」と明かした。
「僕の場合、右ひじを痛めたということが少し影響していると思います。故障した箇所を意識しすぎ、コントロールを考えすぎて、自分の本来の腕の振りがわからなくなってしまいました。僕は、イップスに勝てなかった……それがなければ、ずっとプロ野球選手でいたかった」
「指導されればされるほど、フォームがバラバラになっていく」(田口竜二)
インターネットが普及していなかった80年代、甲子園で活躍することがプロへの近道だった。当時、抜群の強さを誇ったのがPL学園(大阪)。エース・桑田真澄、四番・清原和博がいたチームは、常に優勝候補に挙げられていた。
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桑田と清原の実力を疑う者はいなかった(事実、彼らはプロ入り後すぐに活躍し、球界を代表する看板選手に成長した)から、PL学園を苦しめたチームは認められ、「桑田を打つ」「清原を抑える」ことで選手の評価は上がった。
都城(宮崎)のエース・田口竜二も、PL学園との戦いを通じて、全国に名をとどろかせたピッチャーのひとりだ。
84年春は準決勝でPL学園と11回延長戦を戦い、その夏も3回戦で再び対戦した。いずれも敗れはしたものの、堂々としたピッチングで、このサウスポーが桑田・清原に並ぶほどの実力を秘めていることを証明した。田口は84年ドラフト会議で南海ホークス(現・福岡ソフトバンク)から1位指名を受けた。
入団時の印象を『敗者復活』で次のように明かした。
「春季キャンプ前に合同自主トレがあって、プロの先輩たちと一緒に練習したのですが、体力面は問題ありませんでしたが、投げることに関しては全然ダメだなと思いました。プロのピッチャーは軽く投げても速い。私がいくら力いっぱい投げても勝てない。それまで『自分は秀才だ』と思っていましたが、普通の人だと思い知らされました」