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「ドーハの悲劇」は控え、オーストラリア戦で「9分だけの代表戦出場」…耐え続けた男・大嶽直人が力説する日本代表の“魂”とは
posted2021/10/12 11:03
text by
吉崎エイジーニョ“Eijinho”Yoshizaki
photograph by
Katsuro Okazawa/AFLO
今から27年前、1994年9月27日の国立競技場。
対戦相手はオーストラリアだった。「広島アジア大会壮行試合」と銘打たれたゲーム。
25歳の大嶽直人(横浜フリューゲルス)が、1度きりの日本A代表戦のピッチに立った。
81分に遠藤昌浩との交代で投入された。CBを本職とした大嶽だったが、就任5戦目だったパウロ・ロベルト・ファルカン監督には左サイドバックで起用された。
「フリューゲルスでチームメイトだったゾノ(前園真聖)とのコンビネーションで、左サイドを駆け上がったことを覚えています。オーストラリアは今よりもフィジカルを前面に出すサッカーでしたが、その時間帯は消耗しきっていて、大きなスペースがありましたからね」
A代表デビューだったが、本人はいたって落ち着いていた。
「足が震えるとか、そういったことはまったくなかったんですよ。ボールタッチの感覚がいつもと違うとかも」
なぜなら彼はAマッチ初出場にして“ベテラン”だったからだ。
“ドーハの悲劇”の一員だったが「出場ゼロ分」
あの“ドーハの悲劇”の一員だ。5試合で1分も出場機会が与えられなかったが、背番号2をつけ1歳上の井原正巳や4歳上の柱谷哲二、あるいはサイドバックの非常事態に備え続けた。
そればかりではない。
92年ダイナスティカップ(@北京/現在のE-1選手権の前身)
92年広島アジアカップ
93年アメリカW杯アジア最終予選
これらすべての公式大会で出場機会を待つ時間を過ごした。国際親善試合(Aマッチ)を含めるとじつに25試合。日本サッカーの歴史が劇的に変わった時期、ハンス・オフト監督に招集され続けながらも、公式戦ではベンチやスタンドで“その時”を待ち続けたのだ。
しかし実際にピッチに立ったのは、オフトが去った後だった。ファルカン監督に与えられた9分が、生涯唯一のA代表試合出場経験となった。