サッカー日本代表「キャップ1」の男たちBACK NUMBER
「ドーハの悲劇」は控え、オーストラリア戦で「9分だけの代表戦出場」…耐え続けた男・大嶽直人が力説する日本代表の“魂”とは
text by
吉崎エイジーニョ“Eijinho”Yoshizaki
photograph byKatsuro Okazawa/AFLO
posted2021/10/12 11:03
1992年アジア杯で福田正博と喜ぶ大嶽直人。代表キャップ1の男として、自身のキャリアと日本代表に対する思いを語ってくれた
「何かを背負って戦う」ことに関心があった
大嶽にとっての日本代表はずっと「憧れ」や「夢」ではなく、「現実的なもの」だった。選ばれればもちろん嬉しいが、しかしそれよりも「何をするのか」が大事だった。
1968年生まれ。静岡県の清水で育った。子供の頃に見た日本代表の記憶は「(木村)和司さんや水沼貴史さん」。今とは違って、“胸にエンブレム”ではない。日の丸をつけて戦っている姿を見て「自分もそうなりたい」と思った。
ただ、それは憧れではなかった。「何かを背負って戦う」ことに関心があったのだ。
サッカーどころ清水にあって、身近に年代別代表チームに招集される選手もいたが、「自分も必ず入る」と意気込むこともなかった。自身は強豪校にいたが、代表とは「個人能力にもよるもの」という距離感もよく分かっていた。
「ユース代表より高校のチームがいい。そういう思いでした。実際に対戦して高校のほうが勝つこともありましたからね。当時はそれよりも(全国高校サッカー)選手権、という時代だったので」
今のように日本代表や海外サッカーの情報が行き交う時代でもなかった。
その後、順大で幾多のタイトルを獲得し、91年に卒業。全日空に入団した。92年にチームは横浜フリューゲルスと名を変えた。「ゾーンプレス」で鳴らしたチームにあって、守備ラインの一角として早くから活躍した。
92年3月のオフト就任後は、「もしかしたらこれでまでとは違う選手が呼ばれるかも」という期待もあった。現実に初招集の声がかかった。その時は「チームを代表して選ばれる」という思いも頭をよぎった。国内組だけだった当時の日本代表は、「所属チームを背負って選ばれる選手の集合体」だったのだ。
初出場から25試合、ピッチの外から
しかし、初招集からじつに公式戦25試合をピッチの外から目にすることになった。ダイナスティカップの韓国戦の勝利、広島アジアカップでの歓喜などを、だ。
すると、現実を考えるようになった。
「ドーハの地でもそうだったんですよ。出場機会の少ないメンバー同士で『練習しかないね』という話をしていました」
そうやってコンディションを維持すること、そして練習でとにかく、力を見せることを考えた。
「こっちも必死に取り組んでいることを示すんですよ。見えない鼓舞、とでも言いましょうか。当時のチームは仲良し軍団とも違う、チームワークの良さがありました。試合に出ている選手が出ていない選手を認める。出ていない選手も出ている選手を認める。これによって相乗効果が生まれるのではないか。これがチームに対して自分にできる貢献だとも思っていました」
いっぽうで、ドーハで自分がピッチに立てない理由は納得できる部分もあった。初戦でサウジアラビアと引き分け、第2戦でイランに敗れた。その後のチームの流れがあった。