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中田英寿はなぜマスコミに反発したのか? 「天才ではない」男が覆した“アスリートとメディアの関係”〈23年前のセリエA移籍も『nakata.net』で発表〉
text by
金子達仁Tatsuhito Kaneko
photograph byKazuaki Nishiyama
posted2021/09/13 11:01
2001年のコンフェデレーションズカップ、ブラジル戦にてフリーキックを蹴る中田英寿
“次の中田英寿”が必要な理由
アトランタ・オリンピックに出場したときの中田英寿は、チームの中で唯一、ナイジェリアを勝てる相手だと感じ、考え、西野朗監督と衝突した。日本人にとってワールドカップが夢物語だった時代に、「普通にやればいける」と言い続けた。日本中が歓喜の渦に包まれたジョホールバルでの勝利のあと、拍子抜けするほど淡々としていた。
2018年の今になってみれば、中田の行動や行為は決して突飛なものではなく、単に周囲の意識が遅れていただけだったということがわかる。
もはや、日本人はナイジェリアに怖じ気づかないし、ワールドカップは出て当たり前のものだと感じている。出場が決まったからといって号泣するようなファンは珍しくなった。
ただ、ブラジルやスペインを相手にしても自分たちの勝利を信じることができる日本代表選手は、依然、少ない。普通にやればワールドカップで優勝できると考える選手も、おそらくはまだいない。もしワールドカップで優勝するようなことがあれば、多くのファンが号泣することだろう。
つまり、ステージがあがっただけで、日本サッカーは、20年前と同質の問題と直面している。乗り越えるためには、きっと、次の中田英寿的な存在が必要になってくる。
だから、知る必要がある。中田英寿とは、どんな人間だったのか――。
圧倒的な知的好奇心と、諦めない心。それが、現時点でのわたしがたどり着いている答えである。
「俺のプレーを見て、率直な感想を言ってほしい」
サッカーの才能では彼を凌駕する選手はいた。けれども、中田英寿ぐらい、好奇心をむき出しにし、目の前の目標をクリアするために努力を惜しまない男はいなかった。
自分の知らない世界を知っている人間には積極的にアプローチをし、相手の知識や経験を貪欲に吸収しようとした。
そもそも、わたしが彼と親しくなったきっかけも、「日本にいるときは俺のプレーを見て、率直な感想を言ってほしい」と中田から頼まれたからだった。あとにも先にも、こんなことを頼んできたのは中田英寿ただ一人である。
知らないことを知ることに、喜びを見出せる人間かどうか。誰もが諦めてしまうような困難を前にしても、ひたすらに汗を流せる人間かどうか――。
中田英寿のような選手は、だから、グラウンドだけでは生まれない。サッカー選手をグラウンドだけで育てようとする環境からは、きっと生まれない。
それだけは、確かである。
中田英寿Hidetoshi Nakata
1977年1月22日、山梨県生まれ。ベルマーレ平塚から'98年にペルージャに移籍。ローマ、パルマ、ボローニャ、フィオレンティーナを経て'05年にプレミアリーグのボルトンへ。'06年ドイツW杯を最後に29歳で現役を引退した。