ボクシングPRESSBACK NUMBER
「オレに挨拶がない」阪急電車の線路に座り込みの因縁も…ボクシング“全面戦争”2人のボスを仲介したヤクザ殺しの男
text by
細田昌志Masashi Hosoda
photograph byKYODO
posted2021/09/27 17:06
写真は1931年に行われた日比対抗拳闘選手権大会(日比谷公会堂)
岩田愛之助は、このとき「愛国社」なる右翼団体を興したばかりだった。
姫路生まれ。陸軍幼年学校中退後は神戸港で沖仲仕として働いた。このとき、神戸港の元締めが嘉納健治だった。以後、嘉納の子分として薫陶を受けた。
そんな岩田だが、湊川神社でやくざ相手に喧嘩沙汰となり、日本刀で斬り殺すという事件を起こす。その際、官憲の捜査から逃れるために中国に密航するように手配したのが嘉納だった。程なくして、岩田は孫文の辛亥革命に共鳴し、武漢蜂起に投じている。岩田愛之助の大陸浪人としてのキャリアはここからである。
赤坂の料亭、1時間経っても来ない嘉納
帰国後は、袁世凱政権を支持する外務省の阿部守太郎政務局長刺殺事件に暗躍。12年間の服役後は政友会の院外団の一員として政界工作に従事。また「東洋のマタハリ」と呼ばれた川島芳子と恋愛関係にあったことは『男装の麗人・川島芳子伝』(上坂冬子著/文春文庫)に詳しい。
その岩田愛之助が、頭山満の後ろ盾を得て右翼団体の盟主となっていたのだ。当然、田辺宗英や荻野卓造とも知己であった。嘉納健治と田辺宗英をどうにか和解させようと苦心を重ねたのは、右翼の世界に身を置く以上、自然の成り行きだったかもしれない。
そこで岩田は、帝拳副会長でやはり右翼活動家だった竹内朴児に諮り、仲介の席を設けることを決める。両者を引き合わせることで、一気にかたをつけようと目論んだのだ。
場所は赤坂の「はせ川」。古今、凡百の政治家が密談に使う老舗の料亭である。
上座にどちらが座ったかは資料も記述もないので判らない。ただし、嘉納側の岩田愛之助が仲介人として立った以上、おそらく田辺宗英が上座に座ったものと推察する。開始時刻は午後5時半。田辺が先に現れた。その際、田辺は懇意にしていたやくざを3人帯同していた。
30分経っても1時間経っても、嘉納健治の姿は見えなかった。待たせて焦らそうとしたのか、それとも、田辺が他の親分を帯同させたのが気に食わなかったのか。そのどちらか、もしくは、どちらであるのかもしれない。
岩田愛之助は電話口で「ここはひとつ、折れてやってもらえませんか」と泣訴するしかなかった。
「判った。お前がそこまで言うんやったら、行ったるわ」
そう言うと、嘉納健治は戸棚から拳銃を取り出し、懐にしのばせた。