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「オレに挨拶がない」阪急電車の線路に座り込みの因縁も…ボクシング“全面戦争”2人のボスを仲介したヤクザ殺しの男
text by
細田昌志Masashi Hosoda
photograph byKYODO
posted2021/09/27 17:06
写真は1931年に行われた日比対抗拳闘選手権大会(日比谷公会堂)
まず、オーナーである田辺宗英から渡される経費の大半は、残された選手の酒代と遊興費に消えた。食費に事欠くようになると、荒くれ者たちは新橋界隈の食堂や酒場で無銭飲食を繰り返した。電燈会社の工夫が電柱に上って道場の電気を止めようとすると、下から日本刀を抜いて脅し、かと思えば止められたガスを復旧させようと地中を掘り返しガス管を強引につなげた。──と、評論家の都築七郎は彼らの所業を後年述懐している。おそらく、この中に野口進もいたのだろう。
ある日、田辺宗英が道場の様子を見に行くと、やくざを集めて花札を切っていた。寺銭を取って窮乏をしのいでいたのだ。激怒した田辺は選手を追い出して道場を閉鎖した。
これを機に選手は四散した。野口進が横浜港に舞い戻って、再び柔拳試合に駆り出されたのもこのときである。
半年間の米国遠征を終え、1927年4月に荻野一行が帰国すると、道場はすっかり消えていた。「打倒日倶」どころではない。驚いた荻野貞行は田辺に詫びを入れ、四谷の田辺邸内で道場を再開することで手打ちとした。
これまでは担がれオーナーにすぎなかった田辺宗英が、拳闘興行に本腰を入れ始めたのは、おそらくここからと見ていい。
「帝拳潰し」神戸やくざの東京進出
一方、震災以降、主力選手の多くを引き抜かれ、道場のみならず組織自体が壊滅しかかっていた日倶は、戦力不足を補うために、代表の渡辺勇次郎が日がな各大学や専修学校を回った。無償で拳闘を教えることで部活や同好会を次々と萌芽させたのである。興行で後れを取った分、アマチュア組織を仕切ろうと考えたのだ。
このことが、のちに拳闘がボクシングとなり、競技化する上で大きな意味を持つことになるのだが、このときはさすがに、誰も知る由もなかった。
興行を頻繁に開催し、東京の拳闘界をリードする田辺宗英の帝拳。後れを取る渡辺勇次郎の日倶。その構図がしばらく続くかと見られたが、均衡が崩れる出来事が起きた。