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「オレに挨拶がない」阪急電車の線路に座り込みの因縁も…ボクシング“全面戦争”2人のボスを仲介したヤクザ殺しの男
posted2021/09/27 17:06
text by
細田昌志Masashi Hosoda
photograph by
KYODO
右翼の資金で「帝拳」誕生
《今回私共が山梨勤皇会を結成致しまして本日茲に記念大会を開催することを得ましたのは各位の熱烈なる御後援の賜でありまして深く感謝に堪へない次第であります。
就きましては勤皇運動が刻下の急務であり、国民精神の作興、庶政革新の根本である所以に付いて大略を申述べ各位の奮起を希ふ次第であります》(『勤皇運動に就て‐山梨勤皇会パンフレット其一‐』田辺宗英著/山梨勤皇会 ※旧字体は新字体に変更)
これは、山梨勤皇会なる右翼団体の結成集会で配布された資料の文面である。結成年は「昭和15年」。組織の代表は田辺宗英なる人物である。
上海遠征を強行したことで渡辺勇次郎から破門を言い渡された荻野貞行は、神戸銀行頭取の樽谷公一を担いで東京拳闘会(現・東拳ボクシングジム)を設立。師範となって選手のスカウトに精を出した。横浜港で柔拳試合を戦っていた元草相撲力士の野口進を引っ張ったのもこのときである。
しかし、詳しい事情は判らないが、程なくして荻野は東拳を離れ、新たな拳闘組織の立ち上げに奔走する。それもこれも、決別した渡辺勇次郎への対抗心にほかならない。そこで目を付けたのが前記の田辺宗英だった。
荻野の父、荻野卓造が頭山満や内田良平に近い右翼活動家だったことは前篇で触れた。その関係で、同じく熱心に愛国運動に従事していた田辺を以前から知っていたのだ。
荻野が田辺に着目した理由はそれだけではない。田辺は甲州財閥の流れを汲む田辺家の御曹司にして、三引商事専務取締役の地位にあった。その上、阪急電鉄社長の小林一三は異母兄である。つまり、資金面において融通が利くと踏んだのだろう。
1926(大正15)年、新橋駅のガード下に帝国拳闘会拳道社(現・帝拳ボクシングジム)が開設される。会長は田辺宗英。師範の荻野は道場主であるばかりでなく、実質的に経営を任された。選手は東拳時代から荻野と行動をともにした野口進や佐藤東洋、日倶時代からの仲間である吉本武雄ら。目新しさもあって続々と入門者が集まった。
7月17日には読売講堂で旗揚げ興行を開催。大成功のうちに終えている。荻野の目論見通り、新団体「帝拳」は日倶を引き離し、東京の拳闘界のトップに立ったのだ。
無銭飲食、脅し、花札…消えた道場
荻野貞行は「これでもう安心」と踏んだのか、9月24日に、3人の選手を引き連れ米国遠征に旅立つ。彼らに拳闘家としての経験を積ませるためと、外貨を稼ぐためだったが、実質的な座長を失った帝拳の経営は、羅針盤を失った船のように一気に不安定となった。