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《どちらが本物?》「鷹木信悟は暫定王者」オスプレイが持ち出した“2本目”のIWGP世界ヘビー級ベルト、混沌の行方は…
text by
原悦生Essei Hara
photograph byEssei Hara
posted2021/08/27 11:01
ウィル・オスプレイとベルトをめぐる渦中にいるIWGP世界王者の鷹木信悟
古くは1964年、力道山亡き後の日本プロレス。豊登とザ・デストロイヤーのWWA世界王座のベルト。デストロイヤーは豊登に負けても、ロサンゼルスで防衛戦を行っていた。日米に2本のベルトが存在した。翌年、豊登がロサンゼルスでルーク・グラハムに勝ってしっかりとその2本のベルトを巻いても、統一王者として認められなかった。
アントニオ猪木とボブ・バックランドの間のWWF(現WWE)王座戦でも似たようなことが起きた。猪木はバックランドから王座を奪取して、さらに蔵前国技館でその防衛戦まで行ったが、WWEには猪木がWWF王者だったという記録は残っていない。バックランドも日本でのことはなかったことにして、ニューヨークに戻るとそのまま王座防衛戦を続けた。
1991年3月、東京ドームでの藤波辰爾とリック・フレアーのIWGPとNWAのダブルタイトル戦は藤波が勝ち名乗りを受けてNWAのベルトも巻いたが、後日、オーバー・ザ・トップロープの反則でタイトル移動なしとなった。これはNWAが王者を守る古くからの常套手段だった。
全日本プロレスのPWF王者だったジャイアント馬場はそういう目的ではなかったが、自宅に金でできたまさに黄金のPWFベルトを別に持っていた。
中邑が叫んだ「プロレスはすげえんだよ」の意味
IWGPは猪木の持っていたNWFのベルトを1981年4月に封印。1983年に大規模なリーグ戦が開催され、後にタイトル化されたものだ。だが、それから20年が過ぎた頃、高山善廣がそのNWFベルトを復活させて、逆にIWGPを封印する、と言い出した。
「IWGPは失敗の歴史。オレにはファンの頃、アントニオ猪木やスタン・ハンセンが巻いている姿を見て、いいなあ、と感じたNWFの方が魅力的だ」(高山)
2003年1月の新日本の東京ドームで高山は高阪剛を破ってそのNWFのベルトを巻いた。さらにその5月の東京ドームで高山はNWF王者としてIWGP王者の永田裕志と対戦して勝利した。そして混在するはずのない理念の2つの王座を同時に手にした。最終的に高山がIWGPを封印することはなく、NWFの方が封印された。
ブロック・レスナーは2005年10月に3WAY方式の王座決定戦で蝶野正洋、藤田和之と対戦して蝶野を押さえて第44代IWGP王者となり、翌2006年1月、東京ドームで中邑真輔、3月に両国国技館で曙、5月には福岡国際センターでジャイアント・バーナードを破り3度の防衛に成功したが、そのままベルトを持ち去り、札幌で予定されていた7月の防衛戦に応じなかったため王座を剥奪された。
だが、レスナーからベルトは戻って来なかった。新日本は急遽2代目のベルトを持ち出して王座決定戦を札幌で敢行。棚橋弘至がバーナードに勝ってそのベルトを巻いた。
レスナーが返却しなかったベルトは2007年6月、旗揚げしたIGFのリングにあった。カート・アングルが非公式なIWGP戦で3代目のベルトをレスナーから奪ってしまう。
混沌とした時代はさらに予期せぬことを生んだ。