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札幌ドームが五輪会場で使えない…“世紀の祭典”の陰で奔走したスペシャリストたちの舞台裏
posted2021/08/15 06:00
text by
高山通史Michifumi Takayama
photograph by
Sankei Shimbun
プロ野球は、東京オリンピックと静かに伴走していた。
侍ジャパンの金メダルの熱狂が少し冷めた8月13日、公式戦が再開された。
北海道日本ハムファイターズは約2カ月間の格闘の末、仕切り直しの節目を迎えることになった。
本拠地の札幌ドームが、オリンピック会場に選定された。一部の他球団と同様に、ビッグイベントの設営準備、開催、そして撤収期間を含めて長期間、ホームでの試合を開催することができなかった。
ファイターズは6月13日の横浜DeNAベイスターズ戦を終えると、8月20日の東北楽天ゴールデンイーグルス戦まで札幌ドームを離れることになっていたのである。その間に主催試合は4カードが組まれていた。本来であれば、札幌ドームで開催できるが、北海道外の静岡と那覇、道内では旭川と釧路・帯広の「道東シリーズ」の地方試合へと振り替えて消化したのである。
舞台裏で奮闘したスペシャリストたち
舞台裏で、各所のスペシャリストが奮闘して難局を乗り切った。
ファイターズが地方球場で公式戦を主催する場合、プロ野球仕様のグラウンドへと整備することが必須である。その場合、通常はファーム施設のファイターズ鎌ケ谷スタジアムを担当しているグラウンドキーパーが派遣され、一軍公式戦の開催に適したコンディションへと仕上げるのである。
今回は短期間に地方試合が集中したため、過酷な日程での業務となった。メーンで鎌ケ谷の整備を務めているのは3人。ファームでも主催試合が行われており、一軍の4カードを2人で割り振りして担当する配置とした。NさんとWさんである。もう1人のHさんは残留して、鎌ケ谷を一手に仕切った。
地方試合は静岡を皮切りに、その後は那覇→旭川→釧路・帯広と設定されていた。Nさんは静岡と旭川、Wさんは那覇と釧路・帯広と、たすき掛けにして担当した。整備に十分な日数を取れるようなシフトとし、万全の準備期間をとれるように工夫をした。鎌ケ谷へ戻ることなく、各地を転々とした。