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「できれば続けたかった」25年前のウィンブルドン、“部活出身”25歳の伊達公子が女王グラフを追い込んだ日
posted2021/07/04 11:01
text by
山口奈緒美Naomi Yamaguchi
photograph by
Getty Images
あの日から、もう四半世紀が経つ。アジアの女子選手が初めてウィンブルドンのシングルス準決勝の舞台に進み出たあの日から。そしてグランドスラムの決勝にもっとも近づいたあの日から――。
“学校テニスで育った”25歳が女王グラフに挑む
この10年、アジアの女子テニスは新しい歴史の扉をダイナミックに開け放ってきた。2011年、全仏オープンで中国の李娜がグランドスラムにおけるアジア初のシングルス・チャンピオンとなり、3年後に全豪オープンも制した。2018年には日本の大坂なおみが全米オープンで頂点に立ち、李娜も到達しなかった世界1位に上り詰め、今では4つのグランドスラム・タイトル保持者である。歴史が生まれる瞬間はいつも感動的で、興奮に満ちている。しかし、彼女たちがどれほどの英雄になろうとも、またこの先、別の誰かによってさらなる快挙が成し遂げられようとも、90年代にまだ道なきところへコツコツと道を作った小柄なアジアの女王の姿を忘れないだろう。
1996年7月4日、午後7時33分。ディフェンディング・チャンピオンであり第1シードのシュテフィ・グラフとともにウィンブルドンのセンターコートに姿を現したのは、当時世界13位、25歳の伊達公子だった。外国で英才教育を受けたわけでもなければ、恵まれた体格があるわけでもない。日本の〈学校テニス〉で育ち、かつてはインターハイ・チャンピオンであり全日本チャンピオンだった選手である。
グラフの豪快なフォアに伊達は……
二人はロイヤルボックスに向き直り、片足を後ろへ引いて軽く膝を折った。当時は王室ファミリーが観戦するセンターコートへの入退場の際、男子はお辞儀、女子はこの跪礼を行うのが慣習だった。ウィンブルドンの持つ格式と品位がその一瞬の動作に集約されているといっていいだろう。数ある大舞台の中でも<聖地>という言葉がもっとも似合う場所、その中でも格別な一戦である。現在では女王陛下と皇太子が観戦する場合のみに残っている伝統だが、当時、伊達の初々しくも美しい跪礼にどれほど多くの日本人が胸を熱くしたことか。
グラフのサービスゲームで始まった試合は、立ち上がりからグラフの豪快なフォアとキレのある片手バックのスライスが炸裂し、たちまちグラフの4-0となった。しかし伊達のテニスはいつもここからだった。