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勝てるのが「すごく怖かった」…あの時、JTに何が起こっていた? 名将パルシンの「トータルディフェンス」と幻のシンクロ攻撃
text by
市川忍Shinobu Ichikawa
photograph byTakao Yamada
posted2021/05/26 11:01
1999年から2006年までJTの指揮官を務めたパルシン・ゲンナジー監督
パルシン監督がJTにもたらした変化については、当時、練習方法の効率化やトレーニングを重視する調整法などを幾度か記事にした。日本のチームが美徳とする居残り練習を「私が与えたメニューで十分だから」と言って禁止したことも当時は話題となった。
ただし、そういった環境の変化はもちろん大きかったが、それ以上にチームを変えたのは守備システムの構築だった。相手チームのデータを元に、前衛でブロックに跳ぶ選手と、後衛でディグをする選手との間で、どこにスパイクを打たせるか、どこのコースをブロックで締めるか、その際ディグをする選手はどこにいるかという決まり事をローテーションごとに作ったのである。
同様にパルシン監督は自軍のコートを6分割し、コートにいる6名の選手に割り当てた。それぞれの区域に来たボールは各々の選手の守備範囲で、そこにボールが落ちて失点をすれば、試合中でもお構いなしに烈火のごとく怒る。6分割の配分は均等で、守備が得意な選手、不得意な選手、関係なく平等に割り当てられた。
「試合に出る以上は得意不得意なく、『その範囲のボールを拾えるスキルを身につけてください』と監督からは言われていました。それができないなら、試合に出るべきではないというのが監督の口癖でした」(河野氏)
守備範囲を明確にしたことで、他の選手は次のプレーの準備ができるようになった。当然、ボールはつながるようになる。
5位に“なっちゃった”
JTサンダーズ広島は、古くは天才セッター猫田勝敏を生み出した、Vリーグの中でも古豪に当たるチームだ。しかしパルシン監督就任の直前は、それまでチームをけん引してきた選手の引退もあり世代交代の最中だった。河野氏は回想を続ける。
「第4回(1997/1998年)と、第5回(1998/1999年)Vリーグは8位、7位と僕らは入れ替え戦行きギリギリの順位で、サントリーにしろ、東レにしろ、当時の上位チームと試合をしても何もできずに負けていたんですよ。それが、パルシン監督が就任して、リーグが始まると、それまでは上がらなかったボールが上がるようになる。つながるんです。同じ負けるにしても、以前よりはるかに粘れるようになった。
監督就任1年目の第6回Vリーグでは5位になっちゃったんですよね。“なっちゃった”というのは、10チーム中5位って、それまでの我々からしたら信じられないような高い順位なんですよ。『5位ってすごくない?』って。何より内容がよかったですから、選手は徐々に手応えをつかみ始めていました」
なぜだかわからないが勝てるようになった理由を、あとになって思い返してみたという河野氏は、トータルディフェンスが強化されたことが勝因だと確信した。