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食べたものを吐けば、もう苦しい減量をしなくていい… マラソン・原裕美子が背負った“食べ吐きの代償” 

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松原孝臣

松原孝臣Takaomi Matsubara

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posted2021/04/30 06:02

食べたものを吐けば、もう苦しい減量をしなくていい… マラソン・原裕美子が背負った“食べ吐きの代償”<Number Web> photograph by AFLO

2007年、大阪国際女子マラソンを優勝した原裕美子。結果を出しながらもその陰には大きな苦しみを抱えていた

代償を払うときがやがて訪れた

 1つ結果が出たらやめようという思いもあったが、思っていた以上の結果が出たことで目標が大きくなっていった。

「ヘルシンキの世界選手権は、レースの1カ月前までゆっくりジョギングでさえもすることができない状態で6位入賞。これで体調が万全だったらメダルは夢じゃないと頑張れました」

 何よりも支えとなったのはチーム、そして会社の応援だった。

「私がいい成績を出せば喜んでくれるし、逆に悪いとお葬式のあとのような、下を向いてひとことも話をしない無言の食事が待っています。それがいやでいやで、みんなに喜んでもらいたくて、何が何でも勝つんだ、という気持ちが強かったです」

 だが、代償を払うときがやがて訪れた。疲労骨折をはじめとする怪我に、頻繁に見舞われるようになったのだ。

 チームのキャプテンに食べ吐きを見られ、やめるように忠告されたこともあったという。でも原は食べ吐きをやめられなかった。

「そのときは練習もできていたし結果も出せていたし、怪我もそんなにない時期だったので。そんな大したことないでしょ、と真剣に考えることができなくて」

 摂食障害についての当時の陸上界における理解不足も関係している。

「病気に対しての認知度も低かったですし、もしもっと知れ渡っていれば、真剣に受け止めていたかもしれません」

 心だけでは走れないことに気づいたのは、引退間際だったと言う。

「(もし京セラじゃなければ)結果が出せていたかはわからないけれど、競技自体を楽しめていたんじゃないかと思います」

 過剰な体重管理は、しかし、競技生活のみに影響したわけではなかった。苦しい日々は原をさらなる深みへと引きずり込んでいった。

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