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食べたものを吐けば、もう苦しい減量をしなくていい… マラソン・原裕美子が背負った“食べ吐きの代償” 

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松原孝臣

松原孝臣Takaomi Matsubara

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posted2021/04/30 06:02

食べたものを吐けば、もう苦しい減量をしなくていい… マラソン・原裕美子が背負った“食べ吐きの代償”<Number Web> photograph by AFLO

2007年、大阪国際女子マラソンを優勝した原裕美子。結果を出しながらもその陰には大きな苦しみを抱えていた

「食べたものを簡単に出せるなら」

 我慢が続くほど、渇望は強くなる。我慢できず、練習前の間食用にと買いおきしてあった甘い菓子類をこっそり食べあさることもあった。

「一口くらいなら……と手をつけたはずが、気づいたときには全部食べてしまっていました。その後、とてつもない後悔と恐怖に襲われ、誰もいない廊下で声を殺して涙を流して……。そして、夜中にこっそり、電気もつけないで寮のトレーニング室で着込めるだけ着込んでエアロバイクを60分、90分と漕ぐ。そんな毎日でした

 京セラ入社からおよそ1年経ったある日、生活を一変させる出来事が起こる。

 入浴中、急に気分が悪くなり、浴室で胃の中のものを戻したのだ。体重計に乗ると体重が減っていた。

――「食べたものを簡単に出せるなら、もう夜中にバイクを漕ぐことも、サウナに入ることもしなくて済むかもしれない!」(『私が欲しかったもの』より)

 食べたものを吐くことが、苦しまずに痩せられる方法としてインプットされた瞬間であった。

 そしてそれは、好きなものを好きなだけ食べられる方法の発見でもあった。

 以来、食べては吐き、食べては吐き、が日常となっていった。

「仕事だから仕方ない、強くなるためには仕方ない」

 1日中練習に励み、楽しみであるはずの食事を制限される。他のチームから「(京セラは)厳しいよね」と言われることもたくさんあったと言う。そんな毎日の中で、原は食べ吐きを繰り返す毎日をやめられなかった。

「当時は仕事だから仕方ない、強くなるためには仕方ない、あの環境に置かれたことを当たり前のように思っていました。高校まではお金を払って陸上をしていて、実業団ではお金をもらって走っているわけですから」

 まだ20前後の若い原にとって、世界は京セラだけにあった。

 しかもレースでは、身体に負担を強いながらも結果を残せるようになっていた。

「強くなるために大切なトレーニングの積み重ねと、食べ吐きが始まる以前の栄養の蓄えがありました。トレーニング面では、何が何でもかなえたい夢があり、絶対かなえたいという思いがあり、誰にも負けない努力をしていました。質の高いメニューを更に高いレベルまで追い込んでトレーニングしていましたから。そして体重管理を除けば、大森監督の厳しい指導、練習は私にとって合っていたと思います。(京セラの)稲盛名誉会長からいただいた、『自分の気持ち次第でどうにでもなるんだよ、心が体を動かす』という言葉との出会いもあります。栄養面では、入社後、食べ吐きが始まるまでしっかりと体の中に栄養を補給し続けていて、体の中にマラソンを走れるエネルギーが細胞の中にしっかり蓄えられていたからだと思います。ただその蓄えがあるのも数年だけ。徐々になくなっていき、ケガが増えてその回復も遅くなりました」

【次ページ】 代償を払うときがやがて訪れた

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