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東京の消えた野球場 (ドームも神宮も使えない)85年前…“プロ野球”誕生を見守った「上井草球場」、今は何がある?
text by
鼠入昌史Masashi Soiri
photograph byKYODO
posted2021/04/10 11:03
上井草球場をホームとした幻の球団「東京セネタース」。写真はそのセネタースでも活躍した名ピッチャー・野口二郎
この当時、現在の西武新宿線を運営していたのは西武鉄道……だが、現在の西武鉄道とは流れが違う。1945年に池袋線を運営していた武蔵野鉄道が西武鉄道を吸収合併。そのときに西武農業鉄道と改称し、1946年になって西武鉄道と改めた。つまり、現在の西武鉄道は武蔵野鉄道が源流で、西武鉄道という名前だけを頂いたに過ぎない。
東京セネタースに出資し、上井草球場を建設した西武鉄道は、現在の西武鉄道においてはいわば“傍流”というわけだ。
で、そんな上井草球場なのだが、1936年には21試合、翌37年には56試合を開催している。当時はまだフランチャイズ制が定着しておらず、セネタース以外の試合も行われている。いずれにしても、誕生まもないプロ野球において、上井草球場は洲崎球場とともに“東京での職業野球のスタジアム”として大いに活躍したのである。
上井草球場「最後の試合」
ところが、1938年になると上井草球場で行われた試合はわずか6試合。それは、前年の秋に後楽園球場が開場した影響だった。東京におけるプロ野球の試合はほとんどが後楽園球場で行われるようになり、洲崎球場ともども上井草球場はすっかり過疎ってしまった。今のように分刻みでバンバン列車の走る西武新宿線とは違い、観客輸送を担う余力がほとんどなかったのがネックになったのだろうか。まあ、都心のど真ん中に現れた新球場に敵わないのも仕方がないところだ。
結局、上井草球場でのプロ野球の試合は1939年以降すっかり沙汰止みとなってしまう。西武鉄道は1940年に球場を東京都に寄付して手放してしまう。戦後、1946年には六大学野球の舞台として再び注目される機会もあった(神宮球場が接収されていたため)が、プロの試合が再び行われたのは1950年になってから。セ・パ2リーグ制1年目のシーズンで、8月にパ・リーグの東急VS毎日、阪急VS大映の変則ダブルヘッダーが行われている。