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トリノで“誰も信じなくなった”安藤美姫が2度の世界女王になるまで「記録ではなく記憶に残る選手になりたかった」

posted2021/04/14 11:01

 
トリノで“誰も信じなくなった”安藤美姫が2度の世界女王になるまで「記録ではなく記憶に残る選手になりたかった」<Number Web> photograph by Nanae Suzuki

現役引退から8年が経った安藤美姫さん(33)

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河崎環

河崎環Tamaki Kawasaki

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Nanae Suzuki

 メディアの異様なフィーバーに晒され、2006年トリノ五輪15位惨敗のバッシングに傷ついた安藤は、「人を信じないようにする」ことで強くなった。だが荒川静香選手の華やかな優勝報道の陰で、傷だらけだった18歳の彼女を支えたのも「人」だった。トリノの会場の外で「こんな大きな会場で4回転に挑んでくれてありがとう。勇気をもらったわ」と声をかけてくれたある女性の言葉が、スケートをやめようと決めていた安藤に別の感情を芽吹かせる。

「私のジャンプを、4年後を期待してくれる人たちがいる。自分をサポートしてくれる、力をくれる人たちを信じたい」。自分を励ましながら、安藤は自分のスケートキャリアの起点であった恩師、門奈裕子コーチの下でジャンプを作り直し、「安藤美姫を振り付けたい」と自らオファーをくれたニコライ・モロゾフコーチのもとで表現を学び、より大人びた女性としての演技力を磨き、ついにスケート人生の最盛期を迎える。

 一度はスケートから離れることを決意した安藤美姫は、いかにして2度の世界選手権制覇を果たすトップアスリートに返り咲いたのか。奇跡の復活から引退発表まで、本人に話を聞いた(全3回の2回目/#1#3へ)

 ◆◆◆

トリノ後の「誰も信じない」から雪解けへ

 2006-2007シーズンの安藤は「モロゾフ・マジック」で目覚ましい変貌を見せ、日本ばかりでなく世界をも驚かせた。GPシリーズで好調な滑り出しを見せ、全日本選手権2位で参加チケットを獲得した世界選手権では、会心の演技で優勝、世界女王となる。

 全日本選手権は地元名古屋、2007年の世界選手権の会場は東京で、ともに日本。トリノ五輪直後の安藤の心境では、母国は「アウェイ」だった。

「それこそアウェイだなと思って出場したんですけど、会場を見渡したら自分の名前の入ったバナーや国旗を掲げながら、声援を送ってくださる方がたくさんいた。こんなに応援してくださる人がいたんだなと気づかされたんです。会場以外でも、お手紙や掲示板のメッセージで温かい言葉を送ってくださる方もいました」

「誰も信じない」と決めた安藤の心のなかで、静かに雪解けが始まった瞬間だった。「それなら、信じる人と信じない人を分けて考えようって。人って顔も性格も違うし、同じ色を見て誰もが同じ答えを出さないところが、個性でもあり人間性でもあるとプラスに思えるようになりました。私のことを好きな人、応援してくださる人がいれば、そりゃあ嫌いな人もいるよねと。自分をサポートしてくれる、力をくれる人たちを信じる気持ちの方が少しずつ大きくなっていったんです」

 20歳前。安藤はあまりにも若く繊細で、あまりにも傷つきすぎていたのかもしれない。だがその好不調に波のある、危うさをはらんだ個性はむしろ彼女のスケーティングの魅力でもあった。ファンは安藤の葛藤に自分たちの人生を重ね、場を圧倒する成功や体当たりで弾ける失敗にさえ、魅了されたのだろう。

バンクーバーの後に休養をとる予定だった

 2度目の挑戦となった、バンクーバー五輪は5位入賞。メダルこそ逃したが、その頃の安藤は自分のスケーティングと最も安定的に向き合えていたと言える。そこから4年ぶり2度目の2011世界選手権優勝を始めとして、スケートキャリアの中で最盛期ともいえる成績を残している。彼女は、スケーターとしても、表現者としても成熟を遂げていった。

【次ページ】 東日本大震災「これが同じ日本なのかって」

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