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日本人初の“卓球プレーヤー”は「夏目漱石」? 120年前、ロンドンで“18歳女学生と遊戯”の真相
text by
齋藤裕(Number編集部)Yu Saito
photograph byBungeishunju
posted2021/03/28 11:01
『こころ』『坊っちゃん』などの作品で知られる夏目漱石。1900年10月から1902年12月までロンドンに滞在していた。写真は明治43(1910)年頃のもの。
山田耕筰「日本最初のプレイヤァたるの光栄」
戦後には思わぬところから新証言が出てくる。『赤とんぼ』『この道』などを作曲したことで知られる山田耕筰だ。1950年刊行の自伝でこう主張する。
<十五の春、義兄に迎えられて岡山へ行った。(略)序でながらピンポンも義兄が日本へ伝えたもので、従ってまた義兄の相手役をつとめ、その方面でも日本最初のプレイヤァたるの光栄を要求することが出来るだろう>(山田耕筰『若き日の狂詩曲』中公文庫)
義兄とは姉・山田恒と当時珍しい国際結婚をしたイギリス人教員のG・E・L・ガントレット。耕筰によると、その姉夫妻を頼って15歳の春に引っ越しをし、義兄と卓球をしたのだという。
「日本最初のプレイヤァ」という自信が文中からにじみ出ている山田だが、15歳となったのは1901年6月。ただ、「15歳になった年の春」として読むと、漱石の3月28日より前の可能性も浮上してくる。実際のところ、どうなのだろうか。実姉の恒は当時をこう振り返っている。
<主人は六高(引用者注:岡山の第六高等学校)に赴任することになり、私共は一家を挙げて明治三十四年七月に岡山に向かって東京を離れた>(ガントレット恒『七十七年の想ひ出』植村書店)
明治34年は1901年、その年の7月は漱石のピンポンから約3カ月後にあたる。夫妻が岡山に移住したのが1901年7月。岡山で夫妻と生活をともにするようになった山田耕筰のピンポンも1901年7月以降と考えるのが妥当だろう。
姉の証言によって、耕筰の「栄光」は儚くも打ち消されてしまった。
やはり日付も含めて確認できる日本人初の卓球プレーヤーは……
ここまで夏目漱石&ロバート嬢、坪井玄道&下田次郎、山田耕筰&義兄ガントレットが行った卓球の記述を追ってきた。他にも「横浜の貿易商がイギリスの船員から用具をもらい、丸善石油の裏でやっていた」とか、「外国商社でピンポンを見た日本人がこれをまねて食堂で行なった」、「海軍が軍艦と一緒に買った」など諸説ある。あるにはあるのだが、噂としてあるだけで夏目漱石や山田耕筰のような本人の証言もなければ、坪井のように時期がわかる傍証も確認できない。
冒頭で触れたように今の卓球につながるセルロイド球を使ったピンポンがイギリスで定着したのが1900年。その1900年を基準とすると、現時点でわたしたちが日付も含めて確認できる日本人初の卓球プレーヤーは「1901年3月28日の夏目漱石」と言えそうだ。
ただ、これは研究が盛んで資料も豊富な漱石を、田辺武夫氏のように卓球というテーマで見て、「漱石が日本人初では?」と言う人がいたからこそ出た論点。1901年3月28日より前に、漱石より先にラケットを握った日本人がいてもおかしくはない。
その証拠や証言が発見されれば新説のラリーは続くことになる。「120年前の漱石が日本人初」という古くて新しい説へのリターンは、これから出てくるのだろうか。