卓球PRESSBACK NUMBER

日本人初の“卓球プレーヤー”は「夏目漱石」? 120年前、ロンドンで“18歳女学生と遊戯”の真相 

text by

齋藤裕(Number編集部)

齋藤裕(Number編集部)Yu Saito

PROFILE

photograph byBungeishunju

posted2021/03/28 11:01

日本人初の“卓球プレーヤー”は「夏目漱石」? 120年前、ロンドンで“18歳女学生と遊戯”の真相<Number Web> photograph by Bungeishunju

『こころ』『坊っちゃん』などの作品で知られる夏目漱石。1900年10月から1902年12月までロンドンに滞在していた。写真は明治43(1910)年頃のもの。

1901年のイギリス国勢調査を調べた

 この記述について調べた田辺武夫氏(2016年刊行の『卓球アンソロジー』著者)によると、同じ下宿人のイザベル・ロバートなのだという。1901年のイギリス国勢調査を見ていくと、たしかにブレット家の下宿人として、Isabel Robertsの記述がある。

 イザベル・ロバートは1901年当時18歳、生まれはイングランド東部のリンカンシャー州。職業欄にworkerの文字はなく、学生であることが示されている。ここでわかるのは、日本初とされる卓球は漱石が18歳の女学生としていたということだ。

 当時、ブレット家にはもうひとり、田中孝太郎という下宿人がいた。貿易会社の駐在員の彼とはウマがあったようで、下宿をともにした時期は週1回くらいのペースで一緒に観劇を楽しんでいる。

 だが、ラリーの相手に選ばれたのは彼ではなく、ロバート嬢だった。

 そのことは何を意味するのか。考えられるのはこの日、漱石がロバート嬢に卓球を教わっていたということだ。

3月28日以降、ピンポンの記載が一切見当たらないが……

 日記に初登場の「ピンポンの遊戯」は、漱石も当然やり方が分からなかったはず。現地の新聞に目を通すなど情報感度が高かった漱石が巷で流行っているピンポンとはどんなものなのか、疑問に思っていたのは想像に難くない。そこで、下宿をともにする英国育ちの女学生に教えを乞うた。そうであれば、日記でこの日以外記述がなく、田中氏ほど親密さを感じないロバート嬢がここでのみ日記に登場することにも合点がいく。

 逆にやり方が前からわかっていれば、田中氏と行うこともあったはずだ。しかし田中氏とピンポンをした記述はない。

 それどころか滞英日記には3月28日以降、ピンポンの記載が一切見当たらないのだ。では漱石は女学生と一度ピンポンをしたが、楽しめなかったということなのか。

 その答えを示唆する記述がある。日記の3月28日には<夜ロバート嬢とピンポンの遊戯をなす>に続けてこう記されている。

 <多忙故井原氏の晩餐招待を断わる>

 なんと卓球をしていたその日、井原氏という人物との晩餐を「多忙故(ゆえ)」断っているのだ。この文面から伝わってくるのは、漱石のピンポンへの熱中ぶりだ。確かに手紙の返事や入浴も3月28日の夜にはしている。だが、それだけで晩餐を断るだろうか。その理由は、この夜、漱石がピンポンに没頭していたからのように思えてならない。

漱石から晩餐を断られた井原氏とは?

 ここで同情とともに1つの疑問が浮かぶ。漱石から晩餐を断られてしまった井原氏とは誰なのか。

【次ページ】 漱石は井原氏を無下に扱っていたわけではない

BACK 1 2 3 4 NEXT
#夏目漱石
#山田耕筰

卓球の前後の記事

ページトップ