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経済には逆らえない…F1ラストシーズンに挑むホンダ、過去3回の「撤退事情」を振り返る
posted2021/02/25 17:01
text by
尾張正博Masahiro Owari
photograph by
Thomas Butler/Red Bull Content Pool
ホンダF1にとって、最後のシーズンが幕を開けようとしている。
F1からホンダが去るのは、これが初めてではない。第1期から第3期まで過去に3回あり、今シーズンが終われば4回目となる。理由はそれぞれに異なるが、常に経済的状況が関係していた。興味深いのは、レースから離れた後のホンダとF1の関わり方だ。
64年から始まった「第1期F1活動」は4年後の68年に幕を閉じた。
ホンダは67年3月に発売されベストセラーとなっていたN360の冷却システムを応用し、F1にも空冷エンジンを投入しようとしていた。
二兎を追う者は一兎をも得ず
空冷エンジンにこだわっていたのは創業者の本田宗一郎で、「勝利することが第一」と水冷エンジン車の改良を続けたい現場サイドと意見が対立。最終的に、水冷と空冷の2つのタイプのエンジンを手掛けることになったが、日本の企業がF1に参戦するだけでも困難を伴った時代に2つの異なるタイプのエンジンの開発を並行して、勝てるはずもなかった。
開幕から投入された水冷エンジン車は信頼性が低く、フランスGPでの2位とアメリカGPでの3位が最高位。またシーズン途中のフランスGPに投入された空冷エンジン車は、レース中にクラッシュ。マシンから出火してドライバーが命を落とすこととなり、その後レースに投入されることはなかった。そして、この年限りでホンダはF1から姿を消した。事故の影響と、大気汚染防止のため制定されたマスキー法に市販車を対応させるのに、開発リソースを集中する必要があったからだ。
このとき水冷エンジンを任されていたのが、後に社長を務める川本信彦だった。川本はF1撤退後もレースを続けようと、ホンダに辞表を出してヨーロッパのメーカーへ転職しようとした。上司の説得によって翻意するも、本田宗一郎の長男である本田博俊とともに「無限」を興し、ホンダに在籍しながら無限でレース用エンジンの開発を行なうことを許され、技術を磨いた。
83年から始まったホンダの「第2期F1活動」の指揮を執ったのが、この川本だ。第2期、ホンダは既存チームにエンジンを供給する形で参戦し、通算69勝を挙げた。マクラーレンと組んだ88年には16戦15勝という史上最高勝率を達成するなどして黄金時代を築いた。