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野村克也から甲斐拓也への手紙「君はいい名前をしているな」 ホークスの歴史つなぐ超一流の名脇役
posted2020/12/01 11:03
text by
小西斗真Toma Konishi
photograph by
Naoya Sanuki
昭和のプロ野球といえば、経営母体は新聞社か鉄道会社が主流だった。ファンが読者や乗客と直結したからだ。関西では「私鉄5社」などと呼ばれるが、京阪を除く4社(阪神、阪急、南海、近鉄)は球団を経営していた。時代は流通へと移り、今はIT。すなわち南海からダイエー、ソフトバンクという「ホークス」の歴史そのものなのである。
もっとも、若いファンは「南海ホークス」も、大阪・ミナミの繁華街のど真ん中に、その本拠地である「大阪球場」があったことも知らないかもしれない。球団を売却したのが1988年。そして最後に日本シリーズに出場したのが1973年。今年はコロナ禍による特別な日程だったため、東京ドームが使用できずセ・リーグ主催の第1、2戦は京セラドーム大阪で開催された。つまり「ホークス」が大阪で日本シリーズを戦ったのは、47年ぶり。奇跡的な「里帰り」だった。
「ホークス」とともに大阪に帰る野村克也の19番を
野球の縁を感じる。当時の4番打者で捕手でなおかつ監督だった野村克也氏が、2月に亡くなった。日本シリーズ開幕直前には大阪球場跡地の商業施設「なんばパークス」に、まるで目立ちたくないかのように置かれた「南海ホークスメモリアルギャラリー」で、あるプロジェクトがスタートした。野村氏にまつわる写真や記念品が展示されていないのはおかしいと、江本孟紀氏が発起人となり、リニューアル費用を募るクラウドファンディングを起ち上げた。戦後初の三冠王となり、兼任監督まで務めた野村氏の展示品が、なぜ「南海ホークス」をしのぶ場所にないのか。
そもそもリーグ優勝から4年後、なぜ大功労者は石もて追われるように大阪を去ったのか。そして解任と退団から南海の凋落は始まり、11年後に球団を手放すことになる。そのあらましはNumberWebにて佐藤春佳氏が書いている。
ともあれ「ホークス」が大阪で日本シリーズを戦った同じ年、鬼籍に入ったレジェンドの「里帰り」の機運が高まった。そして、2年連続の巨人スイープに大きく貢献したのが、野村氏の背番号19を今シーズンから背負った甲斐拓也というのも縁を感じずにはいられない。