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朝ドラ『エール』古関裕而が「オリンピック・マーチ」に取り入れた「日本的」な“超有名曲”とは
text by
大石始Hajime Oishi
photograph byKyodo News
posted2020/11/23 06:00
数々のスポーツ音楽を遺した古関裕而の生涯をモデルにしたNHK連続テレビ小説『エール』はいよいよ最終週をむかえた
前出の辻田によると、「オリンピック・マーチ」の作曲にあたって組織委員会とNHKからオーダーされたのは、「日本的なものを作ってくれ」というものだったという。そのため古関は雅楽風や民謡風などさまざまなアイデアを試みたものの、どうもしっくりこない。そこで「君が代」の後半のメロディーを忍び込ませたところ、ようやく完成を見たという。古関が幼少時代から育んできた西洋音楽の要素のなかに「日本的」なエッセンスを巧みに織り込んだ新時代のマーチがここに生まれた。
ただし、「君が代」の引用は「オリンピック・マーチ」が初めてではない。1942年に発売された古関作曲の軍歌「皇軍の戦果輝く」でその痕跡が見られるほか、1932年のロサンゼルス大会において朝日新聞社が選定したオリンピック派遣選手応援歌「走れ大地を」(作曲は山田耕筰)でも同様の手法がとられている。
「オリンピック賛歌」は古関の手で復活した
古関がオーケストラ用アレンジを手がけた「オリンピック賛歌」も1964年の東京を彩った楽曲である。この曲は近代五輪最初の大会であった1896年のアテネ・オリンピック開会式で演奏されたものの、その後楽譜が消失。長らく忘れ去られていた。だが、東京大会の数年前に楽譜が発見され、古関のアレンジによって復活を遂げた。そのように古関裕而は1964年の東京オリンピックを象徴する作曲家・音楽家でもあったのだ。
アジア初のオリンピック、東京1940は無念の返上
1964年の東京大会は「アジア初のオリンピック」となったわけだが、本来であれば1940年の東京大会でその金字塔が打ち建てられるはずだった。
当時の東京市長、永田秀次郎が主導するかたちで東京へのオリンピック招致運動が本格化したのは1930年代初頭のことである。1936年7月にはIOC総会で開催が決定した。だが、1937年7月に日中戦争が開戦すると、国外で東京オリンピックのボイコットを呼びかける動きも見られるようになり、1938年7月には無念の返上となった。政情の悪化だけでなく、日本側の受け入れ態勢の不備や足並みの乱れなども返上の遠因となった。
では、そんな1940年の東京大会ではどのような音楽が用意されていたのだろうか。夫馬信一『幻の東京五輪・万博 1940』を参考にしながら書き出してみよう。