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朝ドラ『エール』古関裕而が「オリンピック・マーチ」に取り入れた「日本的」な“超有名曲”とは 

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大石始

大石始Hajime Oishi

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posted2020/11/23 06:00

朝ドラ『エール』古関裕而が「オリンピック・マーチ」に取り入れた「日本的」な“超有名曲”とは<Number Web> photograph by Kyodo News

数々のスポーツ音楽を遺した古関裕而の生涯をモデルにしたNHK連続テレビ小説『エール』はいよいよ最終週をむかえた

古関裕而も対抗するかのように

 開会式でもまた、さまざまな音楽が奏でられた。昭和天皇・香淳皇后がロイヤルボックスに向かう際に流されたのは、現代音楽や映画音楽を数多く手がけた黛敏郎の作曲による電子音楽「オリンピック・カンパノロジー」。黛は市川崑が監督した東京大会の記録映画『東京オリンピック』の音楽を任せられていたが、そのことを知った組織委員会から作曲を依頼されたという。この曲は複数の鐘の音色を編集した実験的なものだったが、黛はNHKの音楽部の協力のもと、日本各地の梵鐘(寺院のつりがね)の音色を録音。それを素材として楽曲を作り上げた。

 この年の東京大会では、そのほかにもさまざまな楽曲が生まれている。「海をこえて友よきたれ」「オリンピック渋谷音頭」「東京オリンピック音頭」「さあ!オリンピックだ」「フラワー・ニッポン」「東京五輪おどり」「五輪の旋風」「バンザイ東京オリンピック」などなど。古関裕而もまた、「東京五輪音頭」に対抗するかのように「オリンピック日の丸音頭」(1964年)の作曲を手がけている。なかには明らかな便乗商法も見られるが、1964年の東京オリンピックが国を挙げての一大イベントだったことを偲ばせる。

早稲田大学応援部「紺碧の空」がすべてのきっかけ

 1964年の東京大会について語られる際、「東京五輪音頭」と並んで取り上げられることが多いのが、開会式の入場行進曲「オリンピック・マーチ」だ。

 冒頭でも触れたように古関は数多くのスポーツ関連楽曲を残しているが、彼にスポーツ関連の作曲が殺到するきっかけとなったのが、早稲田大学応援部から依頼されて作曲した「紺碧の空」(1931年)。この曲が評判になると、同年には読売新聞社が主催する日米野球に合わせて用意された「日米野球行進曲」の作曲も任された。

 古関が手掛けたスポーツ関連楽曲のなかでももっとも知られているのが、「六甲おろし」という通称でも親しまれているプロ野球最古の応援歌「大阪(現・阪神)タイガースの歌」だろう。辻田真佐憲の『古関裕而の昭和史 国民を背負った作曲家』によると、この歌は1936年の発表当時それほど話題になることもなく、戦後になって広く認知されるようになったという。

 そうした流れを受けて、古関は1950年の「ドラゴンズの歌(通称「青雲たかく」)」、1963年の「巨人軍の歌(通称「闘魂こめて」)」とプロ野球の球団歌・応援歌を手がけることになる。古関が作り出す快活なメロディーがスポーツ観戦の高揚感とマッチすることもあって、作曲の依頼が殺到。昭和の日本音楽史にその名を刻む作曲家、服部良一でさえ「行進曲やスポーツ音楽は古関さんにかなわない」と白旗を上げたとされている。そして、そんな古関のスポーツ関連楽曲の最高峰となるのが「オリンピック・マーチ」だった。

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