JリーグPRESSBACK NUMBER
【J1新記録11連勝】川崎・鬼木達監督インタビュー“ピッチに崩れ落ちた”J1参入戦で学んだこと
text by
二宮寿朗Toshio Ninomiya
photograph byGetty Images
posted2020/10/29 11:03
10月18日の名古屋グランパス戦で、中村憲剛とグータッチをかわす鬼木監督
JFL時代の川崎フロンターレにレンタル移籍でやってきた
鬼木達とはいかなる人物か。
現役時代は全国的に名の通ったプレーヤーとは言い難く、日本代表歴もない。それでも「川崎の宝」と愛された彼の人物像に迫っていくと、名将の原点とポリシーが見えてくる――。
22年前、日本が初めてワールドカップに出場することになる1998年シーズン。鬼木はJFL時代の川崎フロンターレにレンタル移籍でやってきた。
名門・市立船橋高から鹿島アントラーズに入団しながらもボランチのレギュラー争いに食い込んでいけず、3年間でリーグ戦の出場数は20試合にとどまっていた。そこに目をつけたのが、フロンターレのフロントだった。当時から強化を担当していた庄子春男強化本部本部長はこう振り返る。
「Jリーグに昇格するためにはボランチの強化がどうしても必要でした。(鬼木は)いい選手なんだけど、鹿島ではなかなか試合に絡めていないという状況でしたからレンタルでの移籍を打診させてもらったんです」
勝者のメンタリティーを植え付けてほしい
鹿島は1996年に初のリーグ制覇を果たし、翌年もナビスコカップと天皇杯を獲っている。鹿島にある勝者のメンタリティーを植え付けてほしいという裏テーマも獲得の背景にはあった。庄子が言葉を続ける。
「彼は普段のトレーニングから熱量が凄くある。当時のチームにはJリーグのクラブから来てくれた選手も少なくなかったし、足りないというよりももっとあっていいと思っていました。そんななかで鬼木の熱量が、周りにいい影響をもたらしていましたし、プラスに作用しているなって。これは(チームにとって)とても大きかったと思っています」
鹿島での常識がほかのクラブではそうではないのだと鬼木自身も肌で感じた。
「ギャップみたいなものは当然ありましたよ。鹿島だとグラウンドに出たら、要求をぶつけ合うのが普通でしたから。それがここではグラウンドでも仲の良さみたいなところがあって、周りに遠慮しているような感じもあって。
それに環境一つ取っても、何が足りないとか言い訳できる材料が多すぎて逃げ道が多いなと思いました。だから、本当の意味でプロのチームになるには時間が掛かるんじゃないかっていうのは正直思いましたね」