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「これは“野球版”半沢直樹だ」どん底の“広島カープ”に転職した営業企画課長はダメ球団をどう変えた?
text by
清武英利Hidetoshi Kiyotake
photograph byBungeishunju
posted2020/10/09 17:01
2009年に開場したマツダスタジアム
「えー」。茫然としたが、老熟のオーナーの命令である。やむなく店長兼務となって、午前9時にポロシャツで出勤し、10時に店を開けて午後11時まで働いた。併設のレストランも昼時には満員だ。人手が足りず苦情が出たので、彼も厨房に入り、キャベツを刻んだり、盛り付けを手伝ったりした。料理は得意なのである。
鈴木の両親はガソリンスタンドを2人で切り盛りしている。3人の子供のために夕食を作り置きしていたのだが、彼は「それじゃ美味くないよ」と、わざわざ材料を用意してもらって、自分で包丁を振るってきたのだった。それで魚をさばき、寿司も握れるようになっている。正月も3日から出勤し休みなく働いた。カープは、鈴木が転職した翌年の1984年、86年とリーグ優勝し、上げ潮であった。鈴木はしかし、スタジオと厨房で立ち回っていた。
一体、俺は何をしているのか、と思った。だが、深く考える余裕すらないほど忙しく、儲かったのである。とうとう耕平は「カルピオ2号店を出そう」と言い出したが、鈴木はへとへとだったから、ここはきっぱりと断った。
「もう勘弁してください。これ以上はできません」
「おう、アメリカの独立リーグへ行ってくれや」
それから5年後、鈴木は元から突然、告げられる。
「おう、うちの選手を連れて、アメリカの独立リーグへ行ってくれや」
松田家の人々はこうなのだ。新し物好きで、常に先導的である。東洋工業で開発したロータリーエンジンが、先頭を走りたがる松田家の血を物語っている。キューバからコーチを招聘したり、そこへチームを遠征させたり、台湾や中国のチームと提携をしたり、いつも日本初だった。問題は、それが早すぎることである。それを鈴木たちは「松田イズム」と呼んだ。
今度は、米国への野球留学である。
緒方孝市ら入団2年から4年目の若手選手3人を連れ、これにコーチを加えて、1989年5月から9月までバージニア州の「ぺニンスラ・パイロッツ」に行ってこい、というのだった。そこはハンバーガーを食べながら各地に遠征し、メジャーの舞台を目指して鎬を削る、若い選手たちの戦場だった。
「お前はあんなものを選手に食べさせよるんか」
鈴木は引率役であり、下手な通訳であり、運転手であり、調理人である。アパートを借りて共同生活を始め、ホームゲームの時は、朝昼晩と選手たちの食事を作った。昼食を食べさせて選手をバンで球場まで送ると、その足でスーパーに走り買い出しをして仕込む。それが終わると、ナイターの球場に駆けつけ、スコアブックを付けた後、選手たちを連れて帰ってくる。そして遅い食事をとらせて、球団に報告した。すると、日本からテレビクルーがやってきて共同生活を取材し、放映した。「テレビを見たぞ」と元が電話してきた。