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「これは“野球版”半沢直樹だ」どん底の“広島カープ”に転職した営業企画課長はダメ球団をどう変えた?
text by
清武英利Hidetoshi Kiyotake
photograph byBungeishunju
posted2020/10/09 17:01
2009年に開場したマツダスタジアム
驚愕したのは鈴木たちだった。
──自分らでやるったって、どうするんじゃ。スペイン語もわからんのに!
だが、やるべきことは1つしかない。現場に残っていた下請け会社と労働者を指揮し、作り上げるしかないのだ。半袖短パンの鈴木はその見張り役である。
現場には食堂もトイレもない。ホテルで買ったバナナとゆで卵をポケットに突っ込み、それを昼食代わりにして作業を監督した。太陽が身を焙る。その下でグラウンドに自分たちの手で芝生を張った。湾岸戦争の影響でガソリンが手に入らず、サトウキビ畑に囲まれたグラウンドまで馬車で石材などを運んだ。
トラブルは続く。足元を見た作業員たちが「労賃が安い」とストライキを起こした。カネが欲しい奴ばかりだった。悪質な作業員をクビにすると、今度はその男たちがガードマンとなって入り込んでくる。怒り、怒鳴り、チョコレートを手に笑いかけ、現場を駆け回っているうちに、鈴木は高熱を発して倒れてしまった。
一緒に来たカープの職員が、広島に戻った元に「鈴木さんがデング熱にかかっています」と電話を入れた。
「どうしてもだめなら、日本に帰したる」
そう言われると、おめおめと帰れない。意地が先に立つのだ。「医者にかかれ」とも言われたが、注射針ひとつ替えないような場所だから、「病院には絶対行かない」と、ホテルのベッドでうんうん唸っているうちに、少しずつ熱が引いた。
「それが営業企画課長の仕事か」
頑張りどころを越えて、1989年11月に作り上げた「カープアカデミー」は、大リーグ球団傘下のドミニカチームと戦うと、実に強かった。彼らが時間をかけて教えられていないのに対し、カープは日本からコーチを送り込んで、トレーニングから連係プレーに至るまで訓練し、素材に磨きをかけている。
地元リーグに参入して4年目、カープアカデミーはサマーリーグで地区優勝し、翌年にはファイナル優勝を果たした。すると、今度はリーグ自体から締め出しを食らった。三菱地所がロックフェラーセンターを買収して、ジャパン・バッシングが広がっていたころだ。それでもドミニカにコーチを送り続けて、カープ流の育成を続けた。
米国留学を引率したり、ドミニカの荒れ地を這いずり回ったり、「それが営業企画課長の仕事か」といえば、そうではないだろう。だがここは中小企業、自分はなんでも屋だ。