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佐藤琢磨の偉業で蘇る10年前の記憶。
一番大切な「レース」を見失わず。

posted2020/08/29 20:00

 
佐藤琢磨の偉業で蘇る10年前の記憶。一番大切な「レース」を見失わず。<Number Web> photograph by Getty Images

ハミルトンが羨望し、3度目のインディ500参戦のアロンソが届かなかったチャンピオンリングが、琢磨の指に輝く。

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尾張正博

尾張正博Masahiro Owari

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 アメリカのインディ500を制したという佐藤琢磨のニュースは、F1を取材している筆者にとっては感慨深いものがあった。いまから10年前、レース活動を続けるかどうかの岐路に立たされていた琢磨の姿を思い起こさずにいられなかったからだ。

 琢磨は最初からアメリカを目指していたわけではなかった。モータースポーツに目覚めたきっかけは、父親に連れられて行った鈴鹿サーキットで見たF1日本GPだった。

 初めてスタンドから観戦する10歳の少年の目を釘付けにしたのは、伝説のドライバー、アイルトン・セナの走りだった。この日から琢磨は、いつかF1ドライバーになりたいと夢を抱く。

 とはいえ、周囲にレースをしている関係者がまったくいない環境で育った琢磨には、レーシングカートに乗る機会を得ることさえ簡単ではなかった。

19歳の転機、日本人2人目の表彰台。

 転機が訪れたのは19歳のとき。何気なく読んでいたレース専門誌に、鈴鹿サーキットレーシングスクール・フォーミュラ(SRS-F)の記事を見つけた。

 首席で卒業すれば奨学生としてレースに参戦できるスカラシップという制度を見て、迷わず応募。1年後、見事首席で卒業したのだ。そしてF1ドライバーを目指して渡英すると、憧れのセナも制したイギリスF3選手権でチャンピオンを獲得し、'02年に念願のF1のシートを獲得した。

 F1ドライバー3シーズン目、'04年アメリカGPで3位を獲得。日本人として2人目の表彰台に上がった琢磨には、さらなる成功も期待された。

 だが、F1の世界は甘くはなかった。思うような成績が残せなかった'05年にホンダのシートを追われ、翌年、新興チームのスーパーアグリに移籍。そのスーパーアグリは2年後の'08年に経済的な理由からシーズン途中で撤退。憧れていたF1の世界に、琢磨の居場所はなくなった。

【次ページ】 オファーを断ってF1にこだわった時期も。

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#佐藤琢磨

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