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佐藤琢磨の偉業で蘇る10年前の記憶。
一番大切な「レース」を見失わず。
text by
尾張正博Masahiro Owari
photograph byGetty Images
posted2020/08/29 20:00
ハミルトンが羨望し、3度目のインディ500参戦のアロンソが届かなかったチャンピオンリングが、琢磨の指に輝く。
オファーを断ってF1にこだわった時期も。
当時、琢磨はモナコに居を構えていた。スーパーアグリのF1撤退発表から2週間後にはモナコGPが開催された。F1ドライバーになってから、モナコGPの週末を初めて自宅で過ごすこととなった琢磨は、自分がいない中でF1が進行していることに冷静さを失い、珍しく家の中でイライラを募らせたという。
それでも琢磨はF1をあきらめなかった。アメリカからいくつかオファーがあったが、F1にこだわり、すべて断った。
その後何度かシート獲得のチャンスが巡ってきたものの、いずれも交渉が成立するまでには至らなかった。そして、決断する。'10年2月。アメリカのインディ・レーシング・リーグへの挑戦を発表する。
「これまで1年半、レースに出られず悔しい時間を過ごしてきましたが、今日この日から新たな出発、まったく新しい挑戦ができることを楽しみにしています。いまは、レースに復帰できることが何しろうれしくて、喜びを抑えられない気持ちでいっぱいです」
かつては「レース=F1」だった琢磨が。
当時この発表は、ある意味衝撃的だった。琢磨にとっての夢はF1だったからだ。日本GPを観戦しに鈴鹿へ行き、そこでセナを見てレースの世界を目指した琢磨にとって、「レース=F1」のはずだった。
しかし、そのF1の世界はレースをすることだけがすべてではなかった。レースをショーとして産業化させるために、財力と政治力がうごめく世界でもあった。そのため、実力があっても生き残れなかったドライバーは枚挙に暇がない。時にはチャンピオンですら、コース上ではなくコース外の戦いに敗れ、翌年のシートがなかったこともある。
琢磨もシートを失った直後は、F1復帰のためだけに活動を続けていた。しかし、シートを失って初めて見えてきたものもある。自分にとって大切なものとは何か、ということだ。
「いまの自分に一番必要なのはレース。レーシングドライバーとして、これ以上待つことはできなかった」