部活博士のかけこみ相談所BACK NUMBER
部活を再開する前に考えたいこと。
「やらない自主性」の大切さ。
text by
中澤篤史Atsushi Nakazawa
photograph byAFLO
posted2020/07/15 07:00
部活動の「自主的な活動」という性質が今ほど問われている時はない。ここが正念場なのだ。
自主性の意味は二転三転してきた。
自主的な活動として始まった部活でしたが、そのあり方は、社会の変化の影響を受けて自主性とはほど遠い形で二転三転してきました。
1964年の東京オリンピックの前には、金メダル獲得に向けて競技力を高めるためにエリート化が進み、オリンピックの後にはその反省で平等主義への揺り戻しが起きました。実際に部活への参加率もオリンピック前に下がり、オリンピック後に上がっています。
1980年代の学校が荒れた時期には、『スクール☆ウォーズ』的な生徒指導の側面が強調されました。「部活×不良=感動!」というメディア方程式です。
社会が部活に期待することがこれだけ変わる中で、キーワードの「自主性」も、なんだかおかしな意味合いを帯びてくることになります。
「自主的に楽しみなさい」と命令されて実は全然自主的ではなかったり、部活をすること以外の「自主性」が認められなかったり、自主的に楽しむこと自体が評価されて入試に利用されたり。その結果、生徒たちが自主的に楽しんでいるフリをしたりするおかしなケースも出てきました。
強制と暴走の両面に気をつけて。
そもそも学校空間には、教師や保護者たちの期待やプレッシャーが張り巡らされています。そんな中で「生徒の自主性を尊重する」と言っても、それは周囲の大人の思惑によって誘導されたものであったり、そんな大人の思惑を知った生徒側が、したたかに大人の望む姿を演じているだけなのかもしれません。
部活について「自主性」という言葉が出てきた時には、それがどういう意味で使われているかを立ち止まって考える必要があるでしょう。とりわけ、「自主的とは呼べないものを自主的であることにしてしまう強制の問題」と、「自主的であるがゆえに歯止めが利かなくなる暴走の問題」が起きていないかを注意してみるといいと思います。